お話 | ナノ

 ストラップの類はなく、ただ薄汚れたそっけない鉄の鍵。私にだけ許された所有物であり、作らない限りこの世界には二つしかないもの。吐いた息は白く、空も同じような色だった。騒がしい街から一歩外へと足を向ければ、そこには閑静な住宅街がある。裸の枝が風に揺れている。
 苔の生えたコンクリートを踏みしめて、ドロに塗れた階段をゆっくりとのぼり、ドアが並ぶ道を歩く。一番左端。ぴかりと光る銀色の鍵穴に、薄汚れた鍵を差し込んだ。カションと音をたて、鍵は180度回転する。耳につけていたイヤホンを外し、ポケットに押し込んだ。ダッフルコートからはみ出るコードをなんとか仕舞いこみながら、ドアをあけて「こんにちは」と声をかける。耳に飛び込んでくるのは朝のニュース番組の音。女子アナウンサーの綺麗な声。吸い込んだ空気はほろ苦く、思わず眉間に力をいれてしまう。

「やぁ、いらっしゃい」

 テーブルに置かれた四角い灰皿は、私が買ってあげたものだ。あまり大きくないそれをプレゼントすれば、吸う本数が減るのではと考えたのだがどうやら無駄だったらしい。山のように盛られた吸殻にため息を落とせば、彼は手に持っていたそれを灰皿でもみ消した。メッセンジャーバッグを床に置いて、彼の隣へ腰を下ろした。こたつ布団を引き寄せて中に足を滑り込ませる。

「何本目」
「まだ三本目」
「うっそだー」
「しばらく捨ててないからな」
「え、ひどすぎません?」
「そうか?」

 くいっと顔をあげると、くっきりとしたほうれい線が見える。彼の視線はテレビに釘付けだ。そういうえば、いつだかこの女子アナが好みのタイプだと言っていたかもしれない。出るところは出たスレンダーな、美人系。何もかもが私とかけ離れていて、嫉妬すら覚えなかった。
 こたつのなかで擦り寄る足のザラザラとした感触が、なぜかわからないけれど好きだった。かかとにボディクリームでも塗ったらいいと勧めたけれど、彼はそうだねぇと言うだけでまったく聞く耳を持たなかった。好きだからいいのだが、痛くないのだろうか。それだけが心配だ。
 高い位置にある肩に頭をくっつけると、彼は「猫みたいだな」と小さく笑った。

「猫だったら飼ってくれます?」
「どうだろうね。可愛げがあれば」
「今の私には可愛げがないって言いたいんですね」
「あまりないだろう」

 ひどい。残酷だ。彼はゆるりと笑ったままテレビを見ている。女子アナウンサーはいつの間にかいなくなっていた。代わりに移り出される男性司会者の薄くなった髪の毛を見ながら、「先生も気をつけなきゃね」と負けじと嫌味を言ってやったが、さすがは大人と言うべきか、「うーん、スカルプDでも買うか」なんてしれっと言った。卒業して何年も経つのに、やはり私はまだまだ子供だ。

「今日はどうした」
「ん? いやぁ、暇だったんで。大学も春休みですし」
「バイトは?」
「休み」

 硬い指の腹が頭皮を撫でる。ささくれだった指に意識を向けて、ただぼうっとテレビを眺めた。離れていく感覚を名残惜しく思う。ゆっくりと立ち上がった先生は、テーブルの上の湯呑みをもって立ち上がる。「玄米茶でいいか」と聞かれたので、「アツアツで」と返事をする。ヤカンの蓋が開く音や、水が流れる音。年の割にがっしりとした背中に、見惚れずにはいられない。
 出会って五年。交際を初めて一年と少し。実際に付き合ってほしいと言われたわけでもないし、言ったわけでもなかったから、私たちの関係は曖昧だ。気がついたら唇を重ね、体温を求め、二人で朝を迎えていることが繰り返された。そして、鍵を貰った。だから私は、あの日から彼のトクベツを自称している。友人に恋人はアラフォーだなんて言ったことはないけれど。どんな顔をされるのか、ただただ怖いのだ。
 テーブルの上に、猫柄の湯呑みが二つ。灰皿は遠くへ追いやられる。熱々の湯呑みをすすると、美味しい玄米茶が口の中に染みる。お茶は日本の宝だ。

「夕飯食べていくだろう」

 ぴったりと隣に座る。ついと顔を上げた。彼の視線は私に向けられている。

「材料あります?」
「買いに行かなきゃないね」
「お昼は?」
「お昼も」

 私がくるとき、必ず冷蔵庫が空っぽになっている。それがいつもなのか、たまたまなのか、狙っているのかは検討もつかないが、少しだけ嬉しい。二人でスーパーに行くだなんて、まるで夫婦のようだ。それを遠回しに彼に言ったことがある。もし、それを覚えているなら、彼も同じような気持ちになっているのかもしれない。
 薄い上唇を人差し指で撫でれば、しっとりと濡れている。頬に手を添えれば、当然のようにキスをする。玄米茶とタバコの混ざった味がする。なんてまずいキスだろう。それでも、見つめ合う視線の熱は冷めない。

「今日は仁亮さんの家に泊まるって言ってあるんだけど」
「おやおや」

 子ども同士のような触れるだけのキス。角度を変えると、タバコの味が濃くなった。きっとまた数日、タバコの匂いをかぐだけでこのキスを思い出す。

「そろそろ両親に挨拶に行ったほうがいいかな」
「きっとびっくりする。たいして年齢変わらないし。六つとか、七つとか?」
「だから、なかなか行きづいんだよ」
「意気地なしー」
「それくらい本気ってことだろ」
「……そうですか」

 何度使われた言葉なのだろう。綺麗なのに、継ぎ接ぎだらけのその言葉にだって浮かれてしまう。本当に本気か、なんて、不躾な質問を投げかけられるほど子どもではないけれど、冗談半分で受け止められるほど大人でもない。だから好きなのだけど、ちょっとだけ、ずるい。

「仁亮さん」
「ん?」
「反対されたら、駆け落ちできるくらい、私も本気」

 北へだって南にだって、あなたと一緒ならどこへだって行ける。そう信じている。私には彼だけあればほかはいらない。
 私よりもずっとずっと大人な彼は、この純粋な気持ちを信じてくれるのかわからないけれど。唇を重ねたあとの仁亮さんの顔がいつもより嬉しそうだったから、それだけで十分かもしれない。

13.02.19
企画:Urizenさまへ提出
title:夜に融け出すキリン町