お話 | ナノ

 スポーツマンとしてのマナーだと、当たり前の顔をして三枚刃のT字カミソリを滑らせる。音もなく削ぎ落とされていく彼の一部だったそれは、泡と一緒になって排水溝へ流れ落ちていく。艶やかな白い脚を見ながら、名前は歌っていた鼻歌をぱたりとやめた。緑間は凝視されていることには慣れているので、そのまま慣れた様子でカミソリを操る。
 名前がこの光景を見るのは三回目だ。一度目は驚き、二度目は少しだけどきどきしながら。もともと体毛が薄い緑間は、あまり手がかからないらしい。髪の毛よりも黒に近いそれは、人間の神秘的な部分だ。彼の染色体はどうなっているのだろう。
 湯船に浸かったままの体があつい。

「手伝ってあげよっか」

 女である私の方がきっと上手だ、と顔に出してみれば、緑間は鼻で笑った。

「お前より俺の方が数倍綺麗にできるのだよ」
「真ちゃん、それアヒルだよ」

 視力の悪すぎる緑間に苦笑しつつ、名前は立ち上がる。目の悪い緑間もさすがに気がついたのか、慌てて「おい、」と声をかけた。浴槽から出た名前は、彼の後ろにプラスチックの椅子を置いた。彼は苦い顔をしてカミソリを握りしめている。刺さらないとわかっていても、刃物と言うだけで少し怖くなる。彼用のスポンジにボディーソープを二回つけた。彼は一回でも三回でも怒る。

「なにをする」
「背中洗ったげよーと思って」
「いらん」
「だって遅いから逆上せそうだし。はやくしてよ」
「先に出ればいいだろう」
「つめたぁい! 一緒にひゃくまで数えよーよ」
「めんどくさい」
「人事を尽くすのだよー」
「真似をするな!」

 ガミガミとうるさい緑間を無視して名前はスポンジを泡立てていく。彼も諦めたのか、おとなしく自分の脚へと向かい合う。いつものこと。なら最初から素直に頼めばいいのにと思うけれど、緑間が素直に人に頼みごとをする姿は想像できないし、あまりしたくない。
 名前が貸したヘアクリップで前髪をとめ人事を尽くす彼の横顔は、かっこいいけれども可愛らしい。蝶の形をしたヘアクリップが似合ってしまうのがこの男の罪なところである。

「お風呂から出たらさー、撮っておいた昨日のドラマ見たいんだけど」
「ああ、悪女の」
「そうそう。……なんか真ちゃんが悪女とか言うとエロいね」
「鼻からシャンプー突っ込むぞ」
「ねぇそれ絶対宮地さんの影響だよね。恐ろしいこと言わないでくれる」
「減らず口を減らせばいいのだよ」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
「伸ばすな」

 右脚を終えた緑間は、左脚へと移る。さすがに前を洗うことも出来ず、名前は後ろからその様子を見ていた。

「見るな、気が散る」
「暇なんだもん」
「俺は暇じゃない」
「知ってるー」

 彼は綺麗だ。きっと自分なんかより何百倍も。羨ましいと思わないわけでない。けれど、この美しく気高いこの男が、なんの変哲もない自分のものだと思えば、嫉妬は優越感へと変わる。
 ワキもやるの、と聞けば無視をされる。無言は肯定だと口癖のように言っているのは緑間だ。名前は仕方なく冷めた身体を温めるために湯船へと戻った。左脚はほとんど終わったようだ。

「終わったー?」
「……脚はな」
「……。」
「……。」
「緑間真太郎クン」
「まだ手がおわ、」
「緑間真太郎クン」
「わかったからフルネームで呼ぶな鬱陶しい」

 T字カミソリを奪い取って誘い込む。湯船にゆっくりと座る緑間を椅子にして、緑間の腕を引っ張った。

「腕は剃ってあげるよ」
「まだ言ってるのか」
「百まで数えるのは真ちゃんの仕事ね」
「はいはい」
「はい、は一回」

 見なくても笑っているのがわかった。緑間は、以前よりもよく表情筋が動くようになった。ヘッドを押して泡を出し、それをするすると緑間の腕に塗った。「いち、」名前の耳に緑間の綺麗な声がしっかりと響く。鼓膜を揺らす甘い音。
 するするとカミソリが彼の腕を撫でる。水を溜めた桶にカミソリを入れ綺麗にする。「ご、ろく、」そっとささやかれる数字を、名前は同じように心のなかで唱える。
 ――百まで数える真太郎の声で、逆上せてしまうかもしれない。
 そう言うと緑間はぷすっと口から空気を吹き出した。背中から心拍数が伝わっていなかればいいな、と、そればかり考えている名前は、自分のときよりもゆっくりと丁寧に彼の腕にカミソリを当てる。緑間の声音が少しだけ低くなったのは、気のせいだと思うことに、しよう。

13.02.28