お話 | ナノ



「おはやっほー」

 俺に負けず劣らずな、死んだ魚のような目をした女がそこに立っている。時刻は午前9時。土曜日。俺の顔を見るなり、にんまりと笑って女は手を振った。

「突然来るなっていってるだろ」
「そう言わずに〜」
「あ、おい!」

 ショートブーツをぽいぽいと脱ぎ捨てると、名前はずかずかとリビングへと歩いて行く。脱ぎ捨てられた黒色のショートブーツを綺麗に揃えると、無意識にため息がこぼれ落ちる。どうしてこんなことを、俺がしなければいけないのだろう。屈めた腰を伸ばすことすら億劫に感じる。スウェットから露出した足の甲が冷たく、手のひらで少しだけこすった。今日も寒い。
 冷蔵庫を開ける音がして、渋々リビングに足を向ける。コートとバッグをソファに放って、名前は冷蔵庫からペットボトルの紅茶を取り出していた。

「……洗って帰れよ」
「わかってまーす。おばさんは?」
「パートの仕事」
「お姉さんは?」
「彼氏の家」
「リア充だね〜」
「お前もな」
「私たち、と言ってちょーだい」

 キャラクター柄のコップを迷いなく取り出すと、そこに氷を2,3個入れてから紅茶を注ぐ。こんなにも寒いのに、彼女はいつも氷を入れる。氷がないと飲めないのだと、ずっと昔に言っていた気がする。遠い記憶を引っ掻き回すことをやめ、俺は大人しく定位置のソファに腰掛ける。名前も同じように、俺の隣にきた。白いテーブルにペットボトルとマグカップ、それから自分の携帯を置いて、我が物顔でテレビのリモコンを操作する。

「この時間はなにもやってないぞ」
「アニメくらいやってるっしょ」
「見るのか?」
「流すだけ」
「あっそう」

 映し出される映像と音楽にうんざりとしながら、紅茶を飲む。隣から自分のコップを持って来いだとか、勝手に飲むなだとかブーイングが飛んでくるが、こいつはきっと俺の家だということを忘れている。
 彼女は俺のことが好きだ。自信を持ってうなずけるし、俺も彼女のことを心から好いていると胸を張って言うことが出来る。けれど彼女は、俺だけでは満足できないのだろう。それに気がついたのはつい最近だった気もするし、付き合い始めた当初からだったような気がする。クズの彼女もクズなんだな、と言ったのは花宮だったか、山崎だったか、それすらももう遠い記憶となって脳の隅へと追いやられてしまっている。それでいいし、それがいい。
 アニメが終わりを迎え、画面にはエンドロールが映し出される。俺はこいつのどこに名前を書けるのだろうか。古橋康次郎として、古橋康次郎の役を演じたことになるのだろうか。

「……そういえば、お前が見れなかったドラマの最終回撮ってあるぞ」
「あ、まじ? さすが古橋さん、わかってらっしゃる」
「姉貴が撮ったんだ」
「なるほどね」

 彼女の腰に腕を巻きつけて引き寄せれば、うっとりとした様子で擦り寄ってくる。そんなところが猫のようで愛らしい。インカントチャームの香りがふんわりと俺と彼女の体を包み込む。
 ブーブー、と音がなった。彼女の携帯が着信を知らせる。

「電話だぞ」
「ん?」

 大きな画面に映し出された「ミキ」の文字に、俺の心臓は不自然に揺れる。ああ、また、ミキだ。ミキ。お前は一体どんな顔をして、その電話をかけているんだろう。彼女は視線を携帯から俺に戻すと、目を細めてキスをした。彼女唇には毒でも塗ってあるんじゃないだろうか。首に腕を巻きつけられ、甘い香りに脳が痺れていく。

「今は康次郎優先です」
「それはありがたいな」

 首筋を舐めれば、彼女の体は嬉しそうに揺らめいた。「ミキ」の本名を知りたいと思ったことはなかった。きっと知ったら、俺は花宮や瀬戸に協力を願い、その男を見つけ出し、全力で潰すことになる。「ミキ」という仮面を被せられた男は、どんな顔をしているのだろう。もし俺のように目が死んでいたら。目だけでなく、本当に殺してやりたい。
 本命は俺だ。むしろ俺だけでいいのに。エンドロールに映し出されるのは、俺と名前だけで十分だ。鳴り止まない携帯を一瞥してから、俺は彼女の唇を食らう。

「ドラマは後にしないか」
「……いいよ」

 振動が止まる。いつか俺は、顔も知らない「ミキ」を殺してやるのだ。

13.01.12