お話 | ナノ

 ペットボトルのキャップを何十個もみながら、伊月くんは鼻歌を歌う。私はそれを聴きながら、個数を紙に書く。美化委員の仕事はとても地味で冴えないけれど、私はそこが好きだった。
 彼は中学のときも美化委員で、私も同じように美化委員だった。中学三年のとき、彼と一緒にチューリップの球根を埋めたことを、私は今でも綺麗な映像のまま保存してある。上書き保存のされない映像。今日あの人に部活を遅刻すると言った伊月くんの横顔も、きっと、忘れないだろう。

「全部で55個」
「結構集まったな」
「そうだねぇ」

 美化委員というゴシック体の斜め下に書き綴られた私と彼の名前。彼がここにいるというのが、ありありと、そこには証明されていた。
 こんなつもりじゃなかったのになぁと、後悔じみた感情が湧き上がってきた。こんなはずじゃなかった、と言いながら、本当はこうなることを望んでいた自分がいることを、知っている。“俺とあいつ”が誠凛に受かったと聞いたとき、私はどんな顔をしていたのか、知らなかった。
 これから部活かぁ、と携帯を見つめる彼の視線は柔らかく、私の心を引き裂いていく。彼はとても残酷だ。目の前にいるのに、彼は私を見ることはない。絡み合った視線には、必ず同情が孕んでいるのだ。

「もうすぐ、なにかの予選だっけ?」
「そう、ウインターカップ予選」
「バスケは試合が多くてよくわからないなぁ。あれ、夏のはなんなの?」
「それはインターハイ」
「あ、違うんだ」
「全然違うよ」

 私の無知を笑って許すと、彼はシャープペンシルをくるりと回した。緊張している。私が。彼と話すのなんて、もう数えられないくらいなのに、なぜかいつも緊張してしまう。いい加減、心も頭も、彼という存在に慣れるべきだ。
 廊下から男子生徒の笑い声が聞こえ、反射的にそちらを見てしまった。中学の同級生だった彼らは私の名前を呼び手を振った。私もそれに応える。伊月くんは、まだシャープペンシルを回していた。視線を廊下から伊月くんに戻す。

「……楽しい?」

 その質問に、伊月くんは手を止めた。数秒間考えたあと、くるりと回し始める。

「楽しいよ」

 彼の目は、耳は、すべてあの人のためにあるのではないか。あの人のために高校を選んだのではないか。好きなバスケを捨てる覚悟で、あの人とどこまでも落ちていく覚悟で。
 その覚悟はすぐに、違う形になって彼の中に落ちていくことになる。私はそのとき、嫉妬と羨望の入り混じった、汚い視線をあの人に向けていただろう。

「なんで、ここにきたの」

 かしゃんと音を立ててシャープペンシルが机の上に転がった。伊月俊。彼の名前はここにある。紙のザラザラとした感触を確かめるように、何度も美化委員の文字を指でなぞった。廊下から、さっきと同じように笑い声が届いた。

「……好きだから」

 美化委員が、とも、バスケが、とも、続けることはなかった。彼の言葉はそこで終わり、それで完結していた。
 私たちの感情はいつも一方通行のまま完結している。そしてそれで満足なのだ。劣等感を抱きながら、私たちはぶれずに前を見続ける。伊月くんの目はとても視野が広いと聞いたけれど、そんなのはバスケだけの話だ。彼はいつも同じところしか見えてない。伊月くんをずっと見ていたからわかる。私は彼を見ていて、彼はあの人を見ていて、あの人はまた違う誰かと肩を並べている。彼が望んでいるのは、そのポジションだったのかもしれない。それとも、また違う形で彼の隣に並びたかったのかもしれない。私の名前を指でなぞりながら、伊月くんが言う。

「女になってみたかったな」

 そしたら、バスケは出来ないけど。
 唐突な言葉にうまい切り返しが思い浮かばず、私は机の上に転がっていたシャープペンシルを手にとった。無機質なそれは、なんだか落ち着く。
 たとえ彼が女で、私が男でも。今と同じように向かい合って座っているはずだ。私たちは似ている。私は、男になんてなりたくない。男になったら、きっと今以上にあの人を憎んでしまうから。寂しさをひた隠して、私は女で良かった、と頭の中で繰り返す。鏡の向こうで私が腹を抱えて笑っていた。どうなっても私は、彼を手に入れることができないように作られている。

13.01.09