お話 | ナノ


 いつもは細い糸目が、たまに開いて、ガラの悪い三白眼が私を射抜くように見つめる。まるでそれは矢のように私の心に飛んできて、ぐさりと刺さる。傷口からドクンドクンと血が流れ、脳がクラクラするのだ。そして、やはり信じられないと思うのだ。彼が年下で、まだ高校三年だということが。音になっていない声を、彼は楽しそうに聞き、私の弱いところばかりを攻め立てて笑う。

「な、気持ちい?」

 息を飲めば、彼は至極楽しそうに笑う。にたにたと笑う。やめて、と首を振れば、よけいに激しく。

「いい、の、間違いやんなぁ? 名前」

 すうっと開かれた目が私を見れば、私はそれ以上なにも言えなくなってしまう。はぁ、と息を吐きだして、自分の中に溜まっている熱を吐き出した。彼の首に腕を回して、ただただ彼を受け入れる。可愛くない後輩。本当に、可愛くない。






 可愛くない後輩は、私の腰を撫でてからベッドから起き上がった。開けさせただけのスラックスのチャックを上げて、ベルトを引き抜いてフローリングの床に投げ捨てた。寮生活、というのは、こんなにもゆるくていいのだろうか。週に一度、彼は私のアパートへ泊まりにやってくる。よくそれが許されるものだといえば、甲斐性のない兄貴の世話を見ている設定になっているのだと、いつだか楽しそうに話していた。彼は本当に、人を出し抜くことが好きなようだ。暖房がごうごうと音を立てて暖かい空気を送り込む。私はぶるりと身体を震わせた。
 翔一は、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持ってくると、それをごくごくと飲んだ。新陳代謝が活発だから、よく汗をかくらしい。半分以上なくなったボトルを渡され、小さくお礼を述べた。ベッドから起き上がって、彼のワイシャツとブレザーを羽織る。少しだけ肌寒いが、暖房がこれから部屋を温めてくれるだろうと期待をする。彼と一緒に小さなソファに腰掛けて、身体を寄せ合った。この瞬間、私はすごく切なくなって、やるせなくなってしまう。幸せとは、そういうものだ。
 テーブルに置かれた私の煙草を見ると、今吉が無表情でそれを手にとった。ボックスのセブンスターだ。正面に置かれている真っ暗なテレビの液晶に、間抜けな姿をした私達がいた。第三者から見た、阿呆な私達。私はテレビから視線を外して、煙草を見つめる彼の横顔を見つめた。

「名前さん、吸うてみてや」
「えっ、今?」
「おん」

 中身の少ない箱を私に差し出した。彼の瞳はいつもと同じように細められ、綺麗な曲線を描いている。私は馴染みのあるその箱を受け取って、蓋を開けた。

「前はマイセンやなかった?」
「セッターないときはマイセンだけど、基本的にセッターだよ」
「なんで?」
「聞いちゃう?」
「おん」
「前の前の彼氏が、吸ってたから」
「さらっと言いなや」
「翔一が聞いたんじゃない」

 取り出した煙草を口に加えて、可愛らしい装飾が施されたライターで火をつけた。すっと息を吸えば、途端に燃え出す。じりじりと音がして、私は瞼を落とす。肺に送り込まれた煙が、胸を締め付ける。やめられなくなってしまう。ライターと煙草をテーブルへと戻す。

「うまい?」

 開かれた瞼からこちらを伺う三白眼に少しだけ胸を高鳴らせながら、私は首を横に振った。ふぅ、と大きく煙を吐き出すと、翔一が少しだけ顔をしかめた。彼の前で、この部屋で煙草を吸うのは、初めてのことである。

「うまくはないよ」
「なんで吸うん?」
「……なんで、だろうね。理由なんて忘れちゃったよ」

 翔一は私が吐き出した息と白い煙が消えるのを、ただ見ていた。開かれた眼はどこかさみしげで、虚ろだ。私はもう一度フィルターに口をつけ、思い切り肺に毒を送り込んだ。
 理由は、なんだったろうか。吸い始めた年齢すら忘れてしまった。高校卒業したあとだったか、大学に通ってからだったのか。あの時の恋人は確か年上で、もう働いていた。上司からの小言や仕事への不満、それらを忘れられるのが私といるときと、煙草を吸っているときだけだと言っていた気がする。穏やかに笑いながら私の髪を撫でた彼は、もうきっと、新しい“抱き心地のいい枕”を手に入れただろう。安心できる、綺麗で可愛らしい枕を。彼から貰った最初で最後のセブンスター。あの一本が、今の私を作ったのだとしんみりと思う。
 横から伸びてきた長い指が、私の咥えている煙草を掴んだ。咥えたまま翔一を見れば、彼はにこりと微笑んだ。はぁ、とため息を吐いて、口を離した。彼は嬉しそうにそれを手にとって、見つめた。

「どうかした?」
「どーもせぇへんよ」

 どーもせぇへん。繰り返すように言ったその言葉が少しだけ冷たくて、重たかった。翔一の考えていることはよくわからないけれど、空気が変わるのだ。私はそれだけを頼りに、彼の心に触れる。正確に言えば、触れていいタイミングを図っている。彼は私と同じように煙草をくわえ、無表情で吸った。ジリジリ、と音がして、赤く燃えていく。

「……まっずいなぁ」

 うげぇ、と舌を出した翔一に「だから言ったじゃない」と彼の太ももを叩く。彼の手から煙草を奪おうとするが、彼はそれをちょいとかわして、笑う。可愛くない、と頬をふくらませると、彼はそれを突いて空気を抜いた。

「翔一」
「なぁに名前さん」
「仮にもスポーツマンでしょう」

 そうでしょう、と、訴えかけるように彼の眼を見れば、彼は小さく息を呑んだ。そっと彼の心に触れれば、彼はすこしだけうろたえた後、私の侵入を許してくれる。トクベツに、彼の内側を見せてくれる。
 彼が、高校最後の大会――ウインターカップという大きな大会――で、初戦敗退し、そのことでひどく落ち込み、そして泣いたことも知っている。彼は何も言わずにただ私の手を握って泣いたのだ。「間違ってたんやろうか」。ただそれだけを繰り返し、思い出し、泣いていた。私はなにも知らないし見ていないから、彼のための言葉を作ることは出来なかった。ただ手を握って「もうわからないね」と繰り返した。彼はそれに頷いて、泣いた。そう遠くない、過去の話だ。
 翔一は口をきゅっと結び、私から目をそらした。真っ暗になったテレビ画面を見つめて、フィルターを噛んだ。じりじりと煙草を燃やし、自分の寿命まで燃やしていく。テレビ画面に写った私たちは、やはり間抜けだった。世界に置いてきぼりにされた恋人同士。小さい枠から抜けだそうとしない哀れなスポーツマンと、それに翻弄される馬鹿な年増。ふぅ、と翔一が口を開けた。

「ええねん」
「……よくないわよ。まだ若いのに」
「ええねん、ホンマに」

 口から吐き出された煙と自身の息に手を伸ばして、天井へ上り消えて行く煙を見つめたまま、翔一はうっすらと笑った。いつもの貼り付けたような笑みではなく、なにかを吹っ切れたような、痛々しい笑み。私は煙草を持っていない方の手を握って、その輪郭を指で撫でた。翔一はもう一度言う。言い聞かせるみたいに、自分の口を動かして。

「これでええねん」

 それは別れの言葉も似た、決意だったのかもしれない。私は彼の手を掴み、しっかりと切り揃えられた彼の爪をそっと撫でた。未練がましいその爪は、安い蛍光灯の光できらりと瞬いた。一等星には遠く及ばない小さな輝きだった。

12.10.13