お話 | ナノ

 音のない秒針がくるくると回る。カリカリコツン。ガリガリ、サッサッ。クラスメイトが出す騒音だけが聞こえる空間で、私は裏返しにしたプリントにシャーペンを滑らせる。薄く伸びていく黒い線。一本の線が重なっていく。
 先生は、書店の名前が書いてるブックカバーをかけて本を読んでいる。文庫サイズのそれを持つ手が、骨ばっていてすごく色っぽい、というのは私個人だけの感想ではない。クラスメイトたちは、先生を見ては目をとろけさせ声を甘くする。
 静かにページをめくる。左手で本を持ちながら、彼は右手で前髪をいじる。悪癖だ。私はそう思う。
 ふと、視線を上げた先生と目が合う。何か言いたげに表情を曇らせた後、ごまかすように腕時計へ視線を落とした。終わりが近づいている。机に伏せる生徒もいれば、まだプリントと戦っている生徒もいる。女子生徒は顔を隠すようにして机に伏せているのがほとんどだったけれど、私の目の前の子だけは、しゃんと背を伸ばしていた。本を閉じ、先生が椅子から立ち上がる。

「あと五分です。しっかり埋めてください」

 カリカリという音が、少しだけ早くなる。伏せていた生徒が顔を上げ、裏返していた紙を裏返す。

「……名前の書き忘れには注意してください」

 ぴたりと合わさる。ゆっくりと口を動かすと、先生の右の眉が跳ねた。私は手の甲で口元を隠して、ゆっくりと黒い線を指でなぞった。


* * *


 ドアノブを回して押せば、世界の扉はあっけなく開く。中にいるのは悪癖持ちの教師であり、バスケ監督。たった一人、そこでコーヒーを飲んでいる。薄型テレビにDVDレコーダー。積み上げられた白いディスクには、高校名が書いてるのばかりだ。錆びた椅子をひいて、彼の前に腰掛けた。生徒の落書きだらけのそこに置かれた彼愛用のマグカップ。

「……見すぎですよ、キミ」
「なにが?」
「テストの話です」
「あぁ、テストのときね」

 持ち上げる掌の温度を、私は知っている。彼が体を洗う順番も、つけている化粧水も、寝る前に飲むウイスキーも、私は知っている。彼の喉仏がゆっくり上下するのを見ながら、肘を机に置いた。

「だって、あの子、ずっと先生のこと見てるから」
「あの子? ……ああ、あの子ですか」

 私の前に座っている女の子。あの子だけは、ずっと、寝ずに過ごしていた。片手でペンをくるりと回しながら、視線は一点を見つめていた。なんということはない。それだけのこと。それなのに私はそこでがどうしようもなく嫌でしょうがなかった。もし彼と彼女が目をあわせてしまったら。そんなことになったら、私はきっと彼女の肩を掴んでいただろう。そして彼女に、「やめて」だとか「見ないで」だとか、それらしい嫉妬の言葉を投げつけただろう。
 マグカップを置いた。右手で前髪をいじる。

「あんな子より、君の視線のほうが痛かったですよ」

 オトナな先生からすれば、私のご機嫌を取ることなんて、フリースローよりも簡単なのだろう。そして私は、それが心地いいと感じてしまう。両の手で頬を包んで、私はまっすぐに彼を見つめる。彼の悪癖は、もう治らないのだろうなぁと、思った。

「あと、テストに落書きするのはやめなさい」
「ええ? なんで、いいじゃん」
「私へのラブレターなら、書かずに口にすればいいでしょう」
「ロマンがないなぁ、大人は」
「大人ですから」

 机の置かれたマグカップに手を伸ばしても、先生はなにも言わずに私を見ていた。まっすぐな瞳に映るのは、私だけで十分だ。その目を向けてもらう権利なんて、あの子にはない。飲み下したブラックコーヒーは、先生とするキスの味がした。

13.01.05