お話 | ナノ

 朝一番、洗面台の大きな鏡に映った自分の顔にため息を吐いた。リビングまで響くような大きな大きなため息を。
 特に崩れているわけでもなければ、特に整っているわけではない。パーツは悪いが配置がいいからブスではない。そんな感じだ。平々凡々、顔面偏差値は52がいいとこだろう。不満はないが満足もしていない。けれどこの顔に生まれたからには諦めるしかない。リビングに戻ると可愛らしい女子アナがにっこりと私にスマイルをくれた。テーブルに用意しておいたアールグレイを飲むと、少しだけ冷めていて調度良かった。
 シンプルなブレザーを身に纏い、手首にお気に入りのコロンをつけてローファーに足を突っ込む。ピカピカに磨いたソレは太陽の光を浴びて輝く。iPodから流れるイマドキのラヴ・ソングを自分に重ねながら、学校までの道のりをゆっくりと歩いた。




 黄瀬涼太。彼には色々な噂があり肩書きがある。モデル、バスケの天才、バスケ部エース、ファンに優しくフェミニスト。昨日はあの子と、一昨日はこの子と。完璧なパーツが完璧に配置され、線は細く顔は小さい。その上まつげも長く、目はぱっちりとしたアーモンド型。ベビーフェイスと謳われる人気モデル、黄瀬涼太は私の友達である。
 どうやって仲良くなったのかはもう覚えていないけれど、確か何気なくしゃべっていたらいつの間にか仲良くなっていたのだと、思う。席替えのない我がクラス。彼の隣を一年間陣取っているのは他でもない私である。
 三時間目と四時間目の中休み。クラスメイトは机に突っ伏し「お腹がすいた」「帰りたい」と嘆いている。隣に君臨している黄瀬はキラキラとしたオーラを放ちながら財布を手にしている。私が「自販?」と声を掛けると頷いた。

「一緒にくる?」
「おごり?」
「パックならいーけど」
「じゃあ行くかな」

 よっこらせ、と腰を上げるとババアみてー、と黄瀬が笑った。私は何十センチも上にある嫌味なほど綺麗な横顔を睨みつける。
 黄瀬涼太は私の友達である。そして同時に、私の想い人でもある。
 廊下を歩くたびに集まる熱い視線なんて物ともせずに彼は歩く。私だったらヤケドしてしまうであろう。怖くて外に出られなくなるかもしれない。けれど黄瀬涼太は涼しげな、いつもの綺麗な顔で私に笑いかけるのだ。「あ、黄瀬くん!」。小声で話している女子の声すら私たちには筒抜けで。私は肘で彼の横腹をつついた。

「モテモテだねぇ」
「そーでもないって」
「なに、私に対する嫌味?」
「まー名前よりはモテるけど」
「泣いちゃうわー」

 眉尻を下げて情けなく笑う姿はもうすっかり見慣れたもので、大抵「もてる」「イケメン」「好きです」の言葉を言われたときにする顔だ。苦笑いと愛想笑いを足して割ったような、変な顔。
 階段を降りて外への通路に出ると、そこには誰もいなかった。静かに佇む自動販売機しかいない。二台並んだ機械の前に立ち、私はパインジュースを指差した。すると黄瀬は呆れたように笑いながら私の頭に手を置いた。彼の身長からすると、いい置き場所なのだそうだ。私はそれに少しだけ胸をそわそわさせながら「これ」と言う。

「またパインジュース? 名前いつもそれじゃん」
「めっちゃ美味しいからこれ」
「聞き飽きたっつーの」
「そういう黄瀬はレモンティーでしょ」
「んーまぁ、うん」
「髪の毛もレモンみたいだしね」
「喧嘩うってんの?」
「事実でしょー」

 笑い合いながら小銭を入れて、パインジュースとレモンティーを押した。身長の低い私がしゃがみ、取り出し口からその二つを取り出した。離れてしまった彼の手に、寂しさを感じた。
 安っぽい紙パックの素材を確かめるように、しっかりと手にとった。彼にレモンティーを渡せば「さんきゅ」と小さくお礼を言わので、「私こそありがとう」と、お礼を言った。彼と私のネクタイが、風に靡いてぱたぱたと音を立てる。季節は秋へと向かっている。紅葉しはじめたイチョウの木をぼんやりと流れながら、あれも黄瀬の色だ、そんな風に思った。
 風が冷たいと二人で騒ぎながら校舎の中へ戻った。珍しく誰もいない階段を二人で登りながら、パックにストローを刺した。階段の空気は薄暗くて埃っぽいが、私はそれが好きだったりする。朝聴いていたラヴ・ソングを口ずさむと、「俺もそれ好き」と歌い出す。小さな小さなデュエットを切り上げて、私はパインジュースを吸い上げた。喉を通る甘さに幸せになる。

「私のファーストキスはパイン味かなぁ」

 その言葉に、隣に並んで歩いていた黄瀬が足を止めた。数段登ったところで振り向くと、黄瀬は口元に手を当てて笑っていた。

「え、なによ」
「いや、別に。なるほどなって」
「笑うことないでしょー」
「じゃあ俺はレモン味ってことでしょ」
「んー? まぁレモン、かなぁ。レモンティーだし、レモン風味?」

 歩き出さない黄瀬と、数段上に登った私の身長差はあまりなかった。彼はやはり長身である。
 黄瀬は私の腕――パック持っていない方の腕である――をやんわりと掴んだ。彼の長いまつげがふるりと震える。アーモンド型の黄金色の瞳に私が映る。

「じゃあさ、どっちの味がするかキスしてみる?」

 持っていたパックジュースは掌からするりと逃げ出し、階段へと落ちて行った。もう三分の一ほどしか残っていなかったので、トス、と軽い音がした。黄瀬は私の腕を掴んだまま、笑った。すっかり見慣れてしまった、情けない笑顔。

「ジョーダン。忘れて」

 そう言うと、私の腕を離し長く細い、筋肉がしなやかについた足をゆっくりと動かして歩き出す。隣を通り過ぎる彼からは、レモンティーの香りがした。私は落としてしまったパインジュースの箱をじっと見つめていた。掴まれていた腕が、ヤケドしそうなほどに熱い。

「ジョーダンって、ジョーダンでしょ…」

 頭上からきゃっきゃと甲高い笑い声が聞こえ、はっと我に返った。角が凹んでしまったパインジュースを慌てて拾い、階段を早足で登った。
 ファーストキスの味は、いつも黄瀬が口にしている、安っぽいレモンティーがいい。
 そう黄瀬に伝えてみようと思った。窓の外でイチョウの木が大きく揺れていた。

12.11.08