お話 | ナノ

 ぐらり、視界が歪んだ。ぼんやりとする映像は、脳を揺らし意識を遠ざけた。目を大きく開いた監督が手を差し伸べているのが見えたけれど、それに応えることが出来ずに、私は深い深いところに落ちていく。意識がぼんやり、薄れていった。「名前」。最後にうっすらと聞こえた声に、笑うことすら出来ない。やだなぁ監督、部活中に私のこと名前で読んだら、ダメじゃないですか。




゜。



 ふっと意識が浮上して、私はうっすらと瞼を開けた。ぼんやりとする視界は、真っ白だった。そしてそれが天井だということを理解するのに十数秒かかった。ああ、そうか倒れたんだっけ。そう考えて、私は寝返りを打つ。スカートのポケットに手を入れるが、携帯は入っていない。そういえばスクールバッグの中だったと思い舌を鳴らした。すると、カーテンに人影が写った。

「起きたのか」

 その声を聞いた瞬間、私の身体は勝手に動いた。ベッドから飛び上がり、「か、んとく!」と叫ぶ。カーテンの向こう側にいる監督は、勢いよくカーテンを開けた。いつもと同じへの字を描く口元に、眉間に寄せられたシワ。ほっと息を吐くと「元気そうでなによりだ」と嫌味が飛んできた。

「てか、え? 今何時なんですか? てかどうやってここまで来たんですか? てか私なんで倒れたの?」
「もう八時半だよ。みんなは帰った。ここまでは大坪が運んだよ。お前のバッグもだ。ちなみに貧血だ馬鹿者」

 満足か、と言わんばかりの表情に、私はこくんと頷いてお礼を言った。ベッドから足をおろして、綺麗に揃えられた上履きに足をいれた。立ち上がると少しだけ立ちくらみがして、ぐらりと身体が傾いた。あ、やばいな、と思ったところで、腰を抱き寄せられる。しっかりと、まだ筋肉のある温かい腕。かんとく、と小さく口を動かすと、彼は目尻を下げて少しだけ笑う。

「たしか電車通学だったな」
「あ、はい、そうです」
「今日は私が家まで送る」
「えっ、」
「反論はいらない。いいね」
「は、……い、ありがとうございます」

 そんな。監督の車に乗るなんて。そんなことを考えだすと、頭はグルグルと痛み出すし、喉は乾く。監督は私の言葉に満足そうに頷いて、私の腰を抱いたまま歩き出す。反対の手に、床に置かれていた私のバッグを持って。監督の腕にすがるように歩きだし、保健室を出たところで私は不安になる。「かんとく」。慌てた私の声に監督がいつもと同じ表情で言う。

「誰もいないさ」

 たったそれだけの言葉が、私の脳で繰り返される。誰も、いない。なら、いいや。私はさっきよりも強く、監督の腕を握った。監督はそれに気がついて、小さく「やれやれ」と言った。呆れているけれど、優しい声だった。私は監督の、その声が好きだった。試合前にみんなを鼓舞するときも、指示を出すときも、たまに部員をからかうときも、低くて優しい声だ。心が穏やかに凪いでいくような、そんな声。もしかしたら、監督を好きだから、そんな風に思ってしまうのかもしれない。廊下を歩きながら、秋の冷たい冷気を肺に取り込んだ。

 昇降口で私は靴に履き替え、監督からバッグを奪う。監督はそれに少しだけ不満そうにしたけれど、「手、いいですか?」と聞くと、少しだけ目を瞬いたあと、苦笑いで手を差し出してくれた。私はその手に自分の指を絡めた。監督の車が置かれている駐車場に設置されている自動販売機で、私はミルクティーを買ってもらった。監督はいつも飲んでいるブラックコーヒーを。「大人ですね」。その言葉に、監督が「今更だな」と笑った。高そうな黒い車の助手席のドアを開けた監督に、慣れている、という現実をつきつけられ憂鬱な気持ちになりながら、エスコトートされることに少しだけ喜ぶ自分に呆れてしまう。私はゆっくりと車に乗り込んだ。監督の車に乗るのは、初めてのことだ。運転席に座った監督がキーを差し込みエンジンをかけた。静かに回りだしたエンジンに、やはりいい車なのだとひとりごりた。監督は「道案内頼むよ」と言って車を走らせた。校舎を窓から眺めながら、「はい」と返事をした。買ってもらったミルクティーを、ドリンクホルダーに置いて、私はそっと安堵した。缶は持っているのが邪魔だからだ。

 校門を出ると、ぽつぽつと街頭に火が灯り、道を照らしていた。流れていく街頭の明かりをぼんやりと眺めるフリをして、真っ黒なガラスに移る監督を見た。シワの刻まれた、私とは違う時代を生きた人。何年も先に生まれ、生き、恋をしてきた男だ。私たちは、付き合っているという関係ではない。恋人ではない。明確な関係を求めたことはなかったけれど、きっとそれに近い存在だという自覚はあった。「好きです」と言えば、彼は頷いて「私も好きだ」と言ってくれた。でも、付き合ってください、とは言ってないし、彼も付き合ってはいない、と言うだろう。恋愛の形は人それぞれだ。私たちがそれを証明している。愛を確認し合い安心する。キスはしても、セックスはしない。出かけたり、お互いの家へ行ったりもしないのだ。不安にならないと言えば嘘になるかもしれないが、私はこの関係がすごく幸せだ。
 車内に流れるジャズのメロディに少しだけ気持ちが安らぐ。なんだかこの空気には不釣合いで、おかしかった。それでも心地よく、うっとりと目を閉じた。冷たいガラスに頬をつけて、火照る身体を冷まそうとするけれど、無意味なようだ。浮かれた身体は熱を弄んだまま彼の隣に居座り続ける。

「これ、聞いたことある」
「Round Midnightという有名なやつだ」
「ふーん」

 そうなんだ。まったくわからないけれど、私は頷いた。彼はとくに気にした様子もなく、アクセルを踏んだ。ミルクティーを手に取ると、缶は少しだけ冷たくなっていた。けれど、中身はまだ暖かく、そして甘かった。喉を通り抜ける甘みにちょっとした幸せを感じながら、私はそれをこれ以上冷めないようにと両手で包み込んだ。火照った身体で、缶も暖かくなればいいのにな、なんて考えた。
 ふと視線を感じて監督の方を見れば、彼は横目で私のことを見ていた。少し首を傾げると、彼は苦笑をこぼした。

「緊張しすぎだ」

 右手でハンドルをきりながら、左手で私の太ももをぽんぽんと叩いた。生暖かい彼の体温に少しだけ驚きながら私は言う。

「しないほうが、おかしいですよ」

 置かれた手を握り返すことも出来ないまま、私は窓ガラスに顔を向けた。ぽつぽつと人や街頭が見え、ぼんやりと温かい光が浮かんでいた。ぽわぽわと通り過ぎていく光を目で追いながら、私はミルクティーを握りしめた。監督は小さく息を吐いてそれから私の太ももから手を退けた。遠ざかる体温を恋しく思いながら、私はうつむいた。子どものように、キスをして、抱きしめて、愛してくれと強請れたらいいのに。わがままを押し付けて、困らせることが出来たらいいのに。子どもというには歳を取りすぎたし、大人というには無知すぎる。子どもと大人の境界線を、ずるずると歩いている。お気に入りの人形を沢山抱え、思い出や夢を掌から捨てながら、大人へと一歩一歩近づいていく。そのずっとずっと向こうに、“中谷仁亮”はいる。ずっとずっと遠くの方で、ぼうっと私を待っている。全て投げ捨てて大人になるときを、待ってくれている。あと何年経ったら、隣に並ぶことができるのだろうか。
 私はすっかり冷たくなってしまったミルクティーをドリンクホルダーに戻し、バレないように深呼吸をした。スカートの上で握りしめられた掌をゆっくりとほどき、私はさっきの監督のように、優しく彼の太ももに手を置いた。彼は一瞬だけ息を詰め、それからなんでもない風で「どうかしたか」と聞いた。遠くの青色の信号機が、黄色に変わった。冷たくなった指先で、監督の太ももをつつく。ちらりと伺うように向けられた視線に、口をとがらせた。

「口が甘すぎて、困ってるんです。監督、ブラックコーヒー飲んでますよね」

 車がゆっくりとスピードを落としていき、青信号がカチリ、赤に変わる。その瞬間、監督が左腕を伸ばし、私の首にそろりと巻きつけた。引き寄せられ、顔の距離が近くなる。

「……それで?」

 監督はいつもの低く優しい声で、にこやかに問う。信号機が右折の矢印を映しだした。それはきっと、カウントダウン。

「監督、“口直し”、してくださいよ」

 信号機が右折の矢印を映し出す。赤い光が、私と監督の顔を照らした。ぐい、と引き寄せられ、それに応えるように私も身体を乗り出した。二人の距離がゼロになる。重なりあった唇に、胸の奥から幸せが湧き上がる。うっすらと口を開けると、そろりと異物が私の歯をなぞる。それはいつにも増して熱く苦かった。ブラックコーヒー味のキスは、いつもより興奮する。どちらともなく唇を離すと、監督は私の下唇をかさついた親指でなぞった。するりと腕が抜き取られ、首のうしろの寒さに身体を震わせた。監督はハンドルをしっかりと握って、うっすらと口元に笑みを浮かべた。
 信号機が矢印を消した。タイムオーバーだ。車はゆっくりと走り出す。監督が私を見て言う。

「悪い子だね」

 嬉しそうなその声に、私も嬉しくなる。彼が嬉しいと、私も嬉しい。

「悪い大人に言われたくないです」
「ふむ……。お互い様、か」
「そうですよ、お互い様です」

 通り過ぎる人々を横目に見ながら、私は窓ガラスに頬をくっつけた。ぽつりぽつり、街頭の光が浮かんでは消えていく。冷たくて気持ちがいい。身体が火照り、心が燃えていくようなこの熱情のやり場を、無知は私は消化できずに一人ジレンマに陥るのだ。そっと、気付かれないように窓ガラスに映る監督の横顔にキスをした。ひんやりとしたガラスの味を確かめて、覚めることのない自身の熱に、そっと瞼を閉じた。車は、私の家とは別方向へ走ってく。

12.10.21