お話 | ナノ

 鰯雲が流れて行く様子をじっと見ていた。青峰は私の隣で寝転んだまま起きようとはしない。口の端からたらりと光る液体を見つめながら汚いなぁとため息をついてみるけれど、彼は気持ちよさそうに眠ったままだ。
 小春日和、という言葉があるけれど、俳句では冬の季語になる。きっと今日のような日を小春日和というのだろう。一句詠もうかと一瞬思いもしたけれど、そんなに教養のある人間でないのですぐ諦めた。無駄なことに脳細胞を使いたくはない。
 最初は、彼に練習に行けと言っている立場だった。けれど何度も断られるうちに、練習に行けと、言えなくなってしまった。そしてそれから、私も青峰と共に部活に出なくなってしまった。リュックの中に入れられたままの月バスは、もう何ヶ月前のやつだろうか。耳に付けたイヤホンからながれる音楽を、小さい音量で聴きながら寝返りを打つ。体ごと彼に向ければ、彼は空を見上げたまま動かない。カーディガンの裾で彼のよだれを拭ってやった。

「名前」

 一瞬、青峰が起きたのかと思ったが、本当に一瞬の勘違いだった。彼は目の前ですぴょすぴょと寝息を立てている。ハシゴを登る音が聞こえ、頭をそちらへ向けた。

「なんだ、黄瀬か」
「なんだってひどくね?」

 風にさらりと揺れる細い糸が綺麗だとしみじみと思った。顔をしかめた黄瀬は私の隣にどかりと腰を下ろした。私は青峰から顔をそらし、黄瀬のほうへと身体を向けた。リュックにしていた枕が、少し痛くなってきた。
 今日の部活はミーティングの日だっから、きっと早く終わったのだろう。制服姿の黄瀬は私の腰にブレザーをかけてくれた。こういうところが、青峰と違って少し居心地が悪いと思ってしまう。きっと、他の女子であれば赤面しお礼を言うところだろうに、私の基準はどこまで青峰大輝そのものだった。
 澄んだ空気が少しだけ重たくなる。聞こえないくらい小さい音量だった音楽を停止し、イヤホンを取った。青峰の寝息がはっきりと聞こえ、黄瀬のため息もより大きく聞こえた。

「まだ今週、一回も部活来てないっスよね」
「そうだね」
「名前は来いよ」
「じゃあ青峰は一人でサボっていいの?」
「二人でサボるよりいいだろ」
「よくないよ」

 よくない、ともう一度繰り返すと、彼はまた大きく息を吐いた。

「青峰を一人にしたら、空に落ちちゃいそうじゃん」
「は?」
「思ったことない? すごく大きな空を見上げてると、落ちてるように感じるじゃん」
「あー、なくはないけど」
「でしょ」

 彼の髪の毛は空の色よりも深い青色だ。どちらかと言えば海底のような青だが、そんな暗いところではなく、夏の空のようだと思ってきた。けれど、今はその色が違って見える。空に落ちて、深いところまで行ってしまいそうなのだ。彼だけ、落ちることが出来る。私は落ちていけない。だから引き止めなければいけない。彼が落ちないように見ていなきゃいけない。
 彼の手は伸ばされない。空に向かって頭から落ちていくだろう。だから私は助けられない。青峰の手を無理矢理にでも引っ張って救い出せるのは、私よりも大きく、けれど儚い手なのだろう。その役目は私には与えられない。私は、彼を見守ることしか出来ない。

「名前は、青峰っちを一人にしたくないの」
「そう。二人でいたい」
「でもそれ、名前の一番の望みじゃないよね」
「……。」
「お前、バスケする青峰っちが好きだって、俺に何度も言ってきたじゃん」
「黄瀬」
「きてよ、部活。俺は、部活に出てる名前が好きなんだよ。こんなとこで、寂しそうにしてるお前なんか見たくねーよ」

 彼なりの気遣いだということはすぐにわかった。彼だって、いきなり私も青峰も来なくなり寂しいのだろう。けれど、それは私のセリフでもあった。

「やりきれないって顔でコートを見てる黄瀬だって、私は見たくないよ」

 だから、そんな顔だって見たくはなかった。私が原因で彼にこんな顔をさせてしまっているのだとわかっているから、私はそれ以上なにも言わないという選択肢を選んだ。腰にかけられたブレザーを握り締めると、黄瀬が「なんだよそれ」と小さく唸った。私はこれ以上は泣きそうだと、見たくないものに蓋をした。
 黄瀬だって、青峰のバスケが好きなんだ。彼に憧れてバスケを始めてしまうくらいには。そして、今の彼の気持ちを知っているのはきっと黄瀬だ。私にはわからない感情を、彼らは共有することが出来る。だから黄瀬は強く青峰に言えない。ひとりぼっちの気持ちを彼は以前に抱えていた。
 真っ暗な視界で、くっきりと浮かび上がる光を知っている。網膜を焼き尽くしてしましそうな白。

「黄瀬」

 目を開いた。静かに私を見下ろす黄瀬がいる。

「ごめんね」

 それは何に対する謝罪なのか、私にもはっきりとはわからない。というよりも、思い当たるフシがありすぎるのだ。彼に対してはお礼よりも謝罪が上回ってしまうことを、しているという自覚がある。

「ふざけんな、馬鹿」

 情けない声で私を罵倒した黄瀬は、私にブレザーをかけたまま屋上から出ていってしまった。青峰の寝息はいつのまにか止まっていた。私は去っていった彼の背中を思い出しながら起き上がり、スカートを隠すようにかけてあるブレザーを手にとった。すこし汚くなっている白ブレザーの感触をしっかりと掌で確かめた。ふんわりと香るシトラスの匂いは、彼のワックスの匂いだろうか。膝を抱え込み、その膝を覆うようにブレザーをかけた。彼はきっと、体育館に行ったのだろう。帰る前にブレザーを返しに行こうと考え、すこしだけ面倒だと思った。それからまた、心のなかで黄瀬に謝った。
 手に入ることが、普通でつまらなかった。だからきっと、私なのだろう。どこまでも報われない男だと思う。

「ひでー女」

 その言葉に、私は小さく笑った。振り向けば、空を見上げたままの青峰がいた。濃紺の瞳にうつる鰯雲。まるで本物の海みたいだ。

「青峰には言われたくないよ」

 濃紺の瞳に、私が映る。シトラスの匂いはもうしなかった。

12.12.28 / He knows what to say.