お話 | ナノ

 そっと。例えるなら、花弁が誰にも気づかれずに落ちていくような静かさで。そっと笑った。
 薄いピンクの唇はいびつに歪み、愛らしい黒目は目蓋に隠れ、お世辞にも真っ白とは言えない歯を見せた。

「浮気されちった」

 ジョーダンみたいに笑って、そっと笑う。小綺麗な格好をしているところから見て、会いに行ったのだろう。マンションの合鍵を貰ったと自慢されたのはそう遠くない出来事だった。玄関に立つ彼女の目尻は赤く色づき、いつもしているマスカラは施されていなかった。
 中学のときから片思い、高校は追いかけるように同じところに進学し、モデルとバスケを両立する男を支え両想いになれたと言っていたのはほんの三年前、高二の冬のことだった。そのときは、落ちる花弁のようではなく、満開に咲く花のように笑っていたのに。甘い空気を漂わせ、綺麗に咲いたのに。彼女の手が震えていることに気づき、中へ入れと声をかけた。彼女はお邪魔しますと声をかけて玄関をしめる。彼女の右手にはめられていた指輪がなくなっていることに気がついて、思わず眉を顰める。ここに来るまでに外してきたのだろうか。パンプスを揃える後ろ姿が、細く壊れそうだった。

「コーヒーでいいか」

 ソファーに腰をおろした彼女は、こくんと小さく首を振った。自分の色気のないマグカップにインスタントコーヒーと砂糖をいれた。ミルクではなく牛乳派の彼女のために、ストックしてあった牛乳をあけた。やかんの音が、大きく響く。コーヒーというよりはカフェラテに近い飲み物をテーブルに置いて、彼女の隣に腰掛けた。膝を抱えて座る姿に、既視感を覚えた。
 彼女は、黄瀬と付き合う前もよくこうして座って泣いていた。俺の隣で静かに、嗚咽を零して、一人で泣いていた。旧校舎の屋上で、夕陽を浴びていた。何も言わずにただ隣に座っていたあのときの気持ちは、忘れることはないだろう。

「浮気されたって、証拠とかあんのかよ」

 もっと冷たい声が出ると思っていたのに、俺の声帯は彼女を傷つけられないように作られているらしい。やさしい声色に、彼女も驚いたのだろう。ちらりと俺を見ると、困ったように笑った。

「涼太の家、行こうと思って。そしたら、マンションの入口で女の人とキスしてるの、見ちゃった。綺麗な人だったよ。女優さんかな?」
「…そうかもな」

 こんなとき、テツは、緑間は、なんと言って励ますのだろう。俺は気が利かないし頭も回らない。特別な、彼女という立場の女を作ったことはない。黄瀬は、どうするんだろうな、と心の中であざ笑う。今頃あいつはどうしているだろう。その女を、抱いているのか。それとも突き放したのか。俺にはどちらでもいいことだった。

「もう、潮時、かなぁ」

 ぽつり落ちてくる声は、震えていた。泣くのを堪えているんだろう。大学生という立場になってから、彼女が泣いているところは見ていない。一人でずっと、泣いてきたのだろう。

「なぁ、」

 そっと。頭を撫でて彼女を呼んだ。もういいんじゃないか。十分泣いただろう。俺も、お前も。
 顔をあげた彼女は目に水の膜を張って、不安げに揺れている。縋るような視線。助けを求めるような、俺を求める、ソレ。

「俺を好きになれよ」

 髪の毛の感触を確かめるようにゆるりと動かし、首の後ろに手を置いた。うなじを撫でると、彼女の目にはもう水の膜はなかった。驚きに染まる表情からはわずかに期待の色も見える。妄想? 自意識過剰? なんでもいい。今、このときを逃したらこれ以上のタイミングなんて訪れないと直感した。
 拒むことだってできる。身体を傾け、彼女の顔に近づいた。目を見張り、うっすらと空いた唇は扇情的で、自分の中でひっそりと息をしていた欲が暴れ出す。近づいた唇をそっと重ねた。柔らかく、暖かい。ああ、

「あお、みね」

 そうだ、その目だ。彼女の目の前にいるのは俺で、あいつじゃない。想いの中から黄瀬の影が消え、俺で満たされる。今、彼女は俺を求めている。戸惑いながら期待をして、必要とされたがっている。俺がお前を好きなことに、気づかないわけがない。理解したうえで、俺に縋ってきたのだろう。

「あおみね…っ、」

 俺の服にしがみついて涙を流す姿は、脆く崩れそうなほど儚い。ぽとり、落ちた雫が俺のブラックジーンズにシミを作った。彼女の身体をそっと抱いて、ソファーに沈めた。体格を考慮して、大きめのソファーを買っておいて良かったな、と場違いにも安堵した。俺を見上げる視線はもう、黄瀬を見てなんかいない。俺を求め、求められたいと訴えている。ああ、こんなに幸せだなんて。

「ひどく、して、青峰」

 ピンク色の唇にキスをして、そっと彼女の首筋を舐め上げ、吸った。真っ赤に咲いた花の、なんて綺麗なこと。
 名前も知らないくそ女に、心の中で最大級の感謝を述べて溢れ出る笑みを殺した。お前のおかげてこいつはやっと、涙を流して俺に助けを求めた。
 細い声をあげ喘ぐ彼女の真っ白な肌に優しく触れ、いくつものキスマークを残した。何度夢に見ただろう。俺に組み敷かれ、手を伸ばす姿を。ああ、やっと俺のモノ。

12.08.31
Happy Birthday DAIKI.
わたしから愛しいあの子をプレゼント