お話 | ナノ

 放課後の第三音楽室には、だれもいない。陶芸室や美術室などが集まった、通称B棟。その中でも最上階、一番端っこにあるのがこの音楽室だ。授業でこの教室に当たると、生徒はこぞって不満をこぼす。遠い、めんどい、暑い。冬になったら寒い。放課後の音楽室は、第一はコーラス部、第二は吹奏楽部が使っている。唯一使っていないのが、この第三音楽室だけ。週に一度、私はここでピアノを弾いている。
 音楽の先生と私は仲がよく、家だと集中できないと言ったら、音楽室を貸してあげると言ってくれたのだ。たまに聴きにきたりもする。恥ずかしいのだけれど、私一人のためにここを貸してもらっている以上、反抗など出来なかった。
 今日は来れないわ、と残念そうに笑った先生から鍵を借りて、階段を上がる。足取りが軽い。勉強なんて、くそくらえだ。がちゃん、と手慣れた手つきで扉を開ければ、湿った蒸し暑い空気が漂っていた。あまりの不快さに、うわ、と小さく声を漏らした。グランドピアノのそばの窓をいくつか開けると、まだ幾分かマシになる。
持っていた譜面をピアノに置いて、椅子に腰を下ろす。最近はジャズにはまってしまった。テレビの影響である。そっと手を鍵盤に置いて、指を滑らせた。



 どれくらいそうしていたかわからない。通して弾き終わり大きく息を吐くと、拍手が聞こえた。慌てて立ち上がると、入口近くの机に座っている男子生徒がいた。

「え、あ、ありがとうございます?」

 疑問系になりながらも拍手のお礼を言うと、彼は首をがりがりとかきながらあくびをした。なんなの。彼はひょいっと机から身体を下ろすと、大きく伸びた。

「屋上で寝てたらピアノ聴こえてきて、興味本位で来てみたんだよ。あんた、うめーな。俺素人だからよくわかんねーけど、なんか凄かったわ」

 だるげな、でも飾らない素直な感想だった。久しぶりに赤の他人から賛辞をもらった気がする。音楽の教師でも、親でもなく、通りすがりの赤の他人に。こんなに嬉しいことって、ないのだ。

「ありがとう」

 恥ずかしいような、くすぐったいような。心がぽかぽかと日光をあびたように暖かくなる。すこしだけ笑ってそう言えば、彼はもう一度首をかいた。ゆっくりと歩き、私のすぐそばに椅子を置いた。そして、静かに腰を下ろす。手を延ばせば触れてしまえる距離に、青が広がる。肌の黒さは健康的で、筋肉がついた身体は綺麗だ。整った目鼻立ちなのが、この距離だとよくわかる。座った彼に対して私が立ったままなので、ただひたすらにその青い髪の毛を眺めた。

「もっかい、聴きてぇ」

 ただ一言、それだけ。
 それだけ言うと彼は、瞼を閉じた。ピアノの前に腰を下ろし、もう一度鍵盤に手を乗せた。不思議と緊張はしなかった。譜面を見つめて、そっと笑う。なんだか、心地いい。鍵盤に乗せた手が、軽い気がした。久しぶりに、こんな温かい気持ちでピアノに触れている。演奏中、彼は身動き一つせず、じっとその場で聞いてくれていた。鍵盤を跳ねる指先が、太陽の光を反射して爪がきらりと光った。ああ、楽しい。
 弾き終えて彼を見ると、うっすらと開けた青い瞳とカチリと視線があった。鍵盤に載せていた手を自分の太ももへと戻した。

「Some Day My Prince Will Come.」
「は?」
「――いつか王子様が、って曲」

 くすり、笑った。彼は眠そうな目を少しだけ開いて、それからくつくつと喉で笑った。

「殺し文句?」

 かち合った瞳は海のように深い色だった。どう解釈していただいても構わない、と微笑むと、彼は満足そうに頷いた。今日、たまたま弾いたこの曲を気に入ってくれた。わざわざここまで、自分の足で来てくれた。運命だと思い込むくらい、自由だろう。溺れなければ、泳ぎ方などわからない。あなたの海に飛び込んでみてもいいでしょう?

「まずは、自己紹介から始めようか」

 握った手は、太陽のように暖かかった。

12.08.07