お話 | ナノ

 おはよう、と前の座席に座る森山に声をかけると、彼は細い目をまぁるく開いて私を見た。その眉間に刻まれたシワの意味はなんだろうか。そう考えていると、彼は「どうしたお前」と頬をひきつらせた。

「声、ガラガラじゃん。酒ヤケ?」
「ふざけんな。そんな飲まないよ私は」
「未成年だろーが」
「冗談に決まってるでしょ」

 朝起きた瞬間から、私の声はまるで酒ヤケのようにガラガラになっていた。かろうじて絞り出せる声でさえ、人が振り向くくらいには。見た目がヤンキーではないから、みんなは普通に風邪だと思うだろう。というよりも本当に風邪だ。森山の冗談はアウトとセーフのぎりぎりのラインで、いつも真面目に突っ込むべきなのか乗っかるべきなのか、判断に困る。
 木製の椅子に座ると、太ももに触れた部分が予想以上に冷たく、私は椅子と太ももの間に自分の掌を挟んだ。そろそろひざ掛けを用意しなければならない。これ以上体調を悪化させたくはない。森山と話していた小堀が私の顔色を伺い、熱はないの? と首を傾げた。

「平熱。多分乾燥とかのせいかな」
「どうせ暖房つけっぱで寝たんだろ、お前」
「森山エスパーじゃん」
「お前がわかりやすいんだよ」

 くるりと振り向いて盛大に溜息をはく森山と、それを見て苦笑する小堀はすっかり日常風景で、私は森山に嫌味を言い返すこともなく「さすがだねぇ」と大きく頷いておいた。
 残念なイケメン、なんて言われるけれど森山はやっぱりイケメンだし、優しいと思う。ポケットに手を突っ込んで飴を探してくれるそのさりげなさが、他の女子に伝わればいいのにね。なんて、言ってやらないけれど。
 時計の針は予鈴五分前。教室の空気がざわりと震えた。そしてすぐその正体に気がついた。

「森山センパーイ!」
「おー、入ってこい」

 黄瀬涼太のお出ましだ。
 ドアからひょいと顔を見せたモデルくんを、ちょいちょいと手招きをした。彼は軽い足どりで、ぴょいぴょいと教室の中を歩いた。モデルらしくない歩き方、というよりも可愛らしい歩き方だ。先輩の前だと、こうなるのだろう。満面の笑みで森山の前――彼は今横に座っているので、私の斜め前ということになる――に立った。スラックスのポケットに手をいれて立つ姿も様になってしまうのだから、モデルという生き物は恐ろしい。彼の周りだけ霞んで見える。

「電子辞書貸してくださいっス」
「お前友達いねーのか」
「先輩に借りたいんスよー!」
「つーか俺電子辞書持ってねーけど」
「え!?」
「お前持ってないの?」
「え?」

 その言葉を私に対して発しているのだと気がついたのは、二秒後だ。小堀もにこやかに、無言の圧力をかけてくる。こいつら、という言葉を喉の奥で潰して砕いて胃の中へ戻した。黄瀬も不安げにこちらを見ていた。ほぼ初対面、といっても過言ではない。たまに森山と一緒にいる時にあいさつをする程度だ。それに今日はこんな声。森山死ね、とまた胃の中に言葉を吐き出した。

「持ってる、けど」
「まじっすか!?」
「ファンに取られないでね」
「死守するっス!」

 なんとか絞り出した、さっきよりはまともな音。机の中から小さな白い箱みたいなそれを出して、彼に渡した。無駄に奮発して、液晶がカラーのやつを買ったのだ。こんなところでそれに感謝することになるとは。彼にわかりやすい文字を教えてあげてね、電子辞書、と軽い現実逃避を始める。スラックスから左手を出し、電子辞書を受け取った彼は私に軽く頭を下げた。

「恩に着ます」
「お前そんな難しい言葉知ってたんだな」
「本当になー」
「ちょ、二人ともひどいんスけど!」

 けたけたと笑う森山と小堀にくしゃりと笑って、彼は左手をスラックスから出した。そしてその拳を、私の目の前に差し出した。骨ばった白いその手に目を奪われていると、彼がそれをぱっと開いた。中には、黄色い包装紙に包まれた飴玉。いつまでも手を差し出さない私にしびれを切らしたのか、黄瀬は私の机の上にそれをころりと転がした。のど飴、というやけに大きな文字から目が離せない。というよりも、黄瀬の顔を見れなかった。

「これ、感謝の気持ちっス。受け取ってください」

 森山と小堀に別れをいう声も、それに返事をする森山の声もはっきりと聞こえているのに。脳はしっかりと機能しているのに、なぜか頭がぼーっとする。

「……良かったな」
「えっ」
「飴。貰えて」
「あぁ、うん、飴、ほんとね」

 いつもみたいに、茶化して笑ってくれればいいのに。森山も小堀も、目尻を下げてひどく優しそうな顔をするから、私はなにも言えなくなってしまう。机の上に転がった飴玉を手に取ると、少しだけ彼の体温を感じた。
 もったいなくて、食べられやしない。ぼーっとする頭を冷ませというように、大きな予鈴が鳴り響いた。

12.12.26
Happy Birthday RINO !!
I wish you a wonderful year.