お話 | ナノ

 今からほんの半年前、彼に好きだと、思いの丈をぶつけられたときはそれはもうとてつもない衝撃であった。なんてこった。初対面なのに。そう思ったことだけは確かに覚えている。しかしそのときの私はすこしばかり不安定だったようで、彼の告白にありがとうと返した。付き合ってくれるのか、と輝く瞳で聞かれ、頷かない女はいないだろう。彼はたいそう美しい人であった。そしてなによりも、他の人間には遠く及ばないような特別な人間であった。なんの才もないわたしを好きだと、言ってくれていた。輝くルビーの瞳に、吸い込まれるように抱き寄せられた。返事は、当然Yesだった。

「今日の部活は遅くなるから、帰っていても構わない」

 突然私の教室までくると、彼は私の頬をさらりと撫でながらそう私へ告げた。女子たちの視線が痛い。彼の言葉に私は首をふる。いいえ、待ってるわ、と微笑むと、彼は満足そうに笑う。わかっている、彼の言葉は偽りだ。ほんとうは帰す気なんてさらさらない。それをわたしはわかっているから、あなたが好きだから待つのは苦じゃないの、なんて笑ってみせる。絶対服従。彼は絶対で、正義。短い休み時間を終わりにするチャイムがなる。彼は手をひらりと降って自分のクラスへと帰って行く。ああ、なんで付き合ったのだろう。あのとき、わたしはどうして頷いたのだろう。
 彼がかえると、クラスの緊張感がすこしだけ和らいだのを肌で感じた。彼は絶対。それは、周知のコトであった。彼は人気者、とは言えなかったけれど、みんなの畏敬や羨望を、独り占めしていることは事実だ。恐ろしいと思うけれど、素晴らしいとも、思っているのだ。そっと息を吐くと、肩の力が抜けるのがわかる。ああ、疲れた。女子の痛いほどの視線からも開放された。嫌がらせなど、あるわけがなかった。彼はこの学校でも"絶対"を形にしたような人間だ。いくら馬鹿な女たちでもわかる。"彼が彼女を選んだ。その選択は、正しいことだ。私達が口出ししてはイケナイのだ"口を出した時が、最期だと。私になにかをすれば、自分がタダではすまないだろうと。ただやはり、好奇の目を向けられるのだ。どんな会話をしているのだろう、どんな表情をしているのだろう。彼はその視線に気がついているからこそ、ああやって頬をなでたり微笑んだりする。まるで、愛し合っていると言いふらすように。

 彼と付き合ってから、放課後を図書館で過ごすのが当たり前になった。適当にハードカバーの本を手にとって無心で読み進める。物語を理解するというよりも、時間をつぶすということが最優先事項なのである。赤い髪からのぞく、綺麗なルビーの宝石を思い出して鳥肌がたった。好きなのか嫌いなのかと言われたら好きだし、好きなのか好きじゃないのかと言われたら、好きじゃない。恋愛感情というよりも、支配されている故の感情だと、自負していた。下校時間まえに図書館はしめられてしまうので、そこからはひたすら昇降口で待った。さっきのハードカバーの本ではなく、音楽プレイヤーを握りしめながら。光る画面を見つめて、なるべく前を見ないように立つ。彼が声をかけてくるまで、私が彼を待っていると彼に思わせないように。せめてもの反抗。

「あれ、お前こんなところでなにやってんだ」

 待ち望んでいた声よりも、いくぶんか低い。思わず顔をあげると、そこには昔仲の良かった青峰大輝が立っていた。気崩された制服からわかるとおり、どうやら部活は終わったらしい。彼がくるのもそろそろか、と思いながら、久しぶり、と枯れた声で返事をした。

「青峰、どうしたの。忘れ物でもしちゃったの」

 さっきよりは聞き取りやすい声で質問を投げかけると、彼はいつものヤル気なさそうな顔でおう、と答えた。靴を脱いで、わたしの横に立つと、「知らなかったぜ」と小さく言う。わたししかいない空間で、わたしにだけ聴こえるように。彼の言わんとすることがわかり、目を閉じた。

「赤司と付き合ってたんだな」

 彼と付き合う頃から、なぜか彼とはあまり関わらなくなっていた。そう、ちょうど去年のこの時期は、彼と一緒に補習をしていた。同じクラスで、学年順位は真逆だった私と彼。先生に言われてはじめた補習。思いの外意気投合して。クラスでもいろいろ話すようになって。でもそう、彼に告白をされる少し前から、あまり関わりを持たなくなった。彼と付き合ってからは、余計に。「そうなんだ、もう半年になるよ」できるだけ感情を殺した声で言うと、彼は顔を不快そうに歪めた。なんて顔をするんだい、と茶化している余裕は、なかった。彼が怖いからだ。大きな男子に隣に立たれ、威圧感を出されれば、さすがに怖いと思う。

「お前と赤司、仲良かった風には見えなかったぜ」
「そうだね、私も仲良しだった記憶はないもの」

 彼の顔が、より一層不快だと、私に圧力をかける。そんなに気に入らないかい、君の部長をたらしこんだのが。なんて、口が裂けても言えない冗談だなぁ、とぼんやりと思う。すると、遠くからピンクと赤が歩いてくるのが見える。嫉妬は、しなかった。彼が誰の隣を歩こうが、別にいい。どうせ彼は、私に執着しているのだから。これは自信でもなんでもない、客観的に見た、感想。「青峰くん、忘れ物あったー?」元気な声に、すこしだけ胸が詰まる。そして思い出される半年とちょっと前の記憶。体育館で泣いていた彼女を、抱きしめる青。ピンクと青のコントラストに、綺麗だな、とそっと涙を流した。忘れていた記憶が、少しずつ戻ってくる。あのときの私は青峰しか見ていなかった。友達以上の感情を彼に向けていた。ピンクの髪色の綺麗な子が幼馴染だとは知っていた。でも、そんな。彼からはずっと、ただの幼馴染だと聞いていた。それ以上でも、それ以下でもないと。でも、人のいない体育館で二人、静かに抱き合っているのだ。そういうことなのか。困惑していた。ああ、しんでしまいたい。そして私は、青峰と距離をとった。

「うっせんだよ、今取り行くとこだっつーの」

 彼は吐き捨てるように彼女に言うと、私を一瞥した。合わさる視線に、居心地が悪くなり、そらした。こわい。私を見られるのが、こわかった。もう消えたはずの感情が胸の中で暴れだす。だめだ、私には、逃げられない人間がいる。この思いを殺して、生きていかなければならないのだ。私の目の前に立つ王様が、そっと微笑んだ。

「待たせたね、」

 ピンクの子から離れて、私にそっと手を差し出す彼に、私も微笑んだ。そんなことないよ、と。いつもと同じように。背中に汗が伝った。ああ、柄にもなく緊張しているのだろうか。そんな私を見た青峰は、大きく舌を鳴らして私の隣から離れていった。彼の手に自分の手を重ねた。手を伸ばす相手を、間違えてはいけない。私は、彼の手しか取ることを許されていない。半年前の私を頭に思い浮かべた。君には好きな人がいたのにね、と、暴れだした感情を笑う。あのときの私は、ルビーの瞳から逃げられなかった。逃げる術を知らなかったし、もし知っていたとしても、できなかっただろう。ああ、青峰、君にだけはこんな姿、見られたくなかったよ。

12.07.23 / 私には好きな人がいた