お話 | ナノ

 ボールを二つ両手に抱え、頭二つ分違う彼の後ろを歩く。モスグリーンの髪の毛が、さらりと揺れる。身長差、足の長さから生まれるはずのリーチの差、というものはない。ツンデレとして名を馳せる彼は、私のことを気遣いゆっくりと歩いてくれるからだ。
 いつも私と外出するときは、カジュアルでオシャレな服装なのに、今日は違う。バスパンにすこしくたびれたTシャツ。中学のときから見慣れている姿だ。もうすぐ、高校一年、初めてのウインターカップが始まる。
 彼の家から歩いて10分ほどのところに設置されたバスケットコート。スリーポイントのラインに綺麗に立つ彼の目の前、――ゴールの真下――に立ち、名前を呼んだ。

「しんたろ、」

 そう声をかけてから一つのボールを投げると、一度バウンドして彼の手元に収まった。もう一つは、私の手にある。

「いくぞ」
「どうぞ」

 彼の言葉にゆるりと笑えば、ふんと鼻を鳴らしてボールを打つ。しゅ、と高く上がったボールに見惚れつつ、わたしは手に持っているボールを彼に投げる。ボム、と跳ねたボールを受け取ったと同時に、放っていたボールがリングに触れることなくネットを揺らす。彼は何も言わず、二投目を投げる。そしてわたしはネット潜ったばかりのボールを彼に投げる。
 休日の練習は、決まってこうだ。部活があろうがなかろうが、彼はここでひたすらにシュートを打ち続ける。わたしはそれを、手伝う。一度だけ、同じベッドで寝ていたときに聞かれたことがある。

「お前はいいのか。デートなんてあまりしてやれない、二人でいてもシュートの練習ばかりする、そんな俺で、いいのか。不満が、あるんじゃないのか。ないわけ、ない。俺はお前に何もしてやれていない」

 目蓋は伏せられ、少しだけ呂律が回っていなかったから、きっと寝ぼけていたのだろう。彼は普段何も言わなかった。当たり前のように、シュート練習に付き合わせていた。ああ、本当はすごく気にしていたんだと、わたしの心臓がきゅっと音を立てた。いつもわたしの上にある頭を胸に押し付けて、好きだと愛の言葉を囁いた。何度も何度も、音にして彼に伝えた。そんな真太郎が好きだと、あなたの隣に立てるだけで幸せ、手を繋げるだけで心が満たされる。告げた言葉は本心から、いつも思っていることだ。不満なんてない。バスケにとこまでもストイックで、真摯な真太郎が好き。すべて伝えたとき、彼はうっすらと笑みを浮かべ、眠りについた。
 ハーフラインから数歩下がったところに立っている真太郎に届くように投げる。昔はそこまで投げられなかったのだから、わたしも成長しているのだろう。

「ノルマは?」
「とりあえず100だ」
「了解です」

 三文の一、か。三分の二を過ぎれば、彼はもっと後ろへ下がるのだろう。遠くなるのだろう。わたしの投げたボールが、歪な弧を描いて、後悔する。わたしの感情は、表に出てきやすい。ダム。ボール受け取った真太郎が、シュートの姿勢を崩した。わたしは空から落ちてきたボールを両手に持ち、彼の名を呼ぶ。「真太郎?」彼はボールを腕に抱えると、ずれた眼鏡を治す。

「…帰ったら、お前の我が儘を聞いてやらんこともない」
「え、」
「だから、そんな変な顔をするな。気が散るのだよ」

 ふん、と眉間にシワを寄せ、抱えていたボールを構えた。瞬きすら忘れるような、綺麗なフォーム。高く高く空へあがり、リングに真っ直ぐ落ちた。
 ツンデレめ、と、笑うと、不快感を露わにした視線を投げつけられる。我が儘を言う彼が、我が儘を許してくれるのはわたしだけだ。気が散る、なんて言って、本当はわたしのことが気になってしまうだけなんだ。わかってる、彼が不器用で、ちゃんとわたしが好きなことを。遠くに行ったりしないことを。すとんと胸に閊えていたものが取れたような、爽快な気分だ。

「ウインターカップは、一番上からの景色が観たいな」

 そう言って投げたボールは、真太郎に負けないくらい綺麗なアーチを描いた。それは、バウンドすることなく彼の手に届いた。オレンジの球体を持った愛おしい男が、珍しく優しい笑顔を浮かべた。

「当たり前なのだよ」

 人事は尽くしている。
 シュッ。何度も聞いたボールが放たれる音に、わたしはガラにもなく泣きそうになり、誤魔化すように笑った。これが、幸せという感情なのかもしれない。冬の香りが鼻腔を擽り、この世界に二人きりになった気分だった。

12.09.09
God bless you.