お話 | ナノ


 目下に広がるバスケットコートが、ぐらりと揺れた。横たわった我が校のエースの姿がじんわりとぼやけていくのは、きっと私の目に張った水の膜のせいだろう。彼の名前を叫べば周りの人たちはぎょっと目を見開いた。誰も私が彼の恋人だと知らないのだから、驚くのも無理はない。
 観客席で一人だけ立ち上がった私を、コートに立つと男が笑いながら見ていた。緑色のユニフォームを着た男。私よりも一つ年上の男。
 三日月のように弧を描いたその唇も、こちらを見上げるその顔も、憎らしくてしょうがない。横たわっていた彼が、ゆっくりと起き上がった。数人の選手に囲まれたあと、コートを後にした。私は観客席から逃げ出すように走り出した。真は口をゆっくりと動かして私に言った。いつもの口癖を、いつものように憎らしい笑みで。




 そろりと階段を登り、ドアの前で深く深呼吸をした。私と彼以外いない家に、その呼吸はやけに大きな存在感がある。ノックもしないでドアノブを回して、扉を押し開けた。
 ずっと変わらない部屋の配置。置かれたローテーブルも、デスクトップパソコンも、見慣れたものだ。大きなベッドの上に座り、壁に背を預けていた彼は私を見るなりわざとらしく笑った。

「……どうした、珍しいな」
「そういうのいいから」
「可愛くねーな」

 誰も知らないはずだった。家まで送ってもらったこともないし、ろくにデートらしいものだってしてない。たまに彼の家に遊びに行った程度だ。知っていたのは私と彼の共通の友人だけ。ひっそりとしたお付き合いを続けてきたのに。親にだって言ってないのに。なのになんでこの男は知っていたんだ。
 噛み締めた奥歯が嫌な音を立てた。真は読んでいた雑誌を閉じて、ローテーブルの上に投げた。

「昔はもっと可愛げがあったのになぁ? 俺のこと大好きだったくせに」
「うるさい」

 張り上げた声は、整った部屋に響いた。目の前の男はまるでチェシャ猫のようだ。ベッドに座るチェシャ猫は、挑発的に私を見ている。私は同じようにベッドの上に乗り込んで、壁に凭れる彼の両脇に手を置いた。膝立ちの私を見上げるチェシャ猫は声を殺して笑っている。
 錆びた錨が胸の奥底に沈んだまま、動くことはない。心はずっとそこにとどまり、広い海の上や彷徨い続けている。深くまで落ちた錨は、きっともう上がってこない。上げられない。
 今日の試合の風景を思い出して、胃がぐるぐると暴れだす。いっそすべて吐き出してしまえば楽になるのかもしれない。奥底にしまいこんだ言葉や感情をすべてぶつけてやりたかった。運ばれた彼氏は、いまどうしているだろう。あのとき、真は確実に彼の肘を狙っていた。私にはわかる。わかってしまった。

「あれが私の彼氏って、知ってたでしょ」
「なんのことだか」
「とぼけないで」
「うるせー女はモテねーぞ」

 どっちがうるさいのよ、というセリフは舌の上で噛み砕いて飲み込んだ。壁についていた手を、ゆっくりと彼の首へとかけた。両手に力を入れてみるも、彼はぴくりとも動かない。喉仏が上下に動いた。

「そんなに憎けりゃ殺せよ」
「……嫌だ、自分で自分の首締めて」
「逃げてんじゃねーよ」

 逃げてなんかない。いや、逃げられないの間違いだ。私は彼から逃げられないようになっている。錆びた錨は海底に突き刺さったままだ。

「ほんと、ヤな奴」

 上下の動く喉仏を押すことなんて簡単だ。彼の首を絞められるだけの力はあるし、度胸もあるはずだ。なのに脈を打つ首筋に触れているだけで、私は動く事ができない。彼が生きて、血を巡らせ、心臓を動かしているその事実が、苦しい。苦しくて苦しくて、私はまた今日も、彼に息の仕方を教えてもらうしかない。

「そんな俺が好きなんだろうが」

 いつから彼のことを真と呼ぶようになったのだか、もう忘れてしまうほど昔のことだ。初めて呼吸を共有したあの瞬間から、錨は抜けなくなってしまったのだ。錆びて溶けていくしかない。それは何年後のことだろう。私が彼への思いを断ち切れるのはいつだろう。
 あの彼氏は錨を抜いてくれるような人ではなかった。見込み違い、というやつだ。申し訳ないと思いつつ、いつ別れ話を切り出そうか、そんなことを頭の片隅で考えていた。
 目の前の男は笑みを絶やさない。白くきめ細やかな肌に爪を立てた。彼の脈が私の指に触れている。それはなんだか素敵なことだと思った。この世で一番嫌いで、憎い、たった一人の私の男。チェシャ猫がくつくつと喉で笑った。

「あんたみたいなお兄ちゃん、欲しくなかったのに」
「奇遇だな、俺もお前みたいな妹欲しくなかったよ」

 ぐっと力を入れてみた。どうしたって、私が彼の喉仏を潰すことは出来ないのだ。彼の呼吸があるから、私は息をしていられる。吹きこまれた酸素を求めるように、私はうっすらと口を開けた。深い海の底で沈んだまま、私たちは動けないままだ。
 
12.12.22