お話 | ナノ

 やっぱりちょっと遠いなぁと、誰もいない教室で一人詰将棋をする主将、赤司征十郎の横顔を見てそう思った。ガラガラとドアを開けて彼の世界へと足を踏み入れようかと思ったが、私の前を歩いていた友人に声をかけられ辞めた。「カラオケ行くっしょ?」と聞く友人に、私は愛想笑いで「行くに決まってんじゃん」と答えた。前を歩いていた友人二人はその答えに満足したのか、隣のクラスの誰かを誘おうという話で盛り上がり始めた。私は別に誰でもいいので、その後ろで静かに携帯を見ているフリをした。
 きゃあ、と小さな悲鳴のような、そんな高い声が聞こえてきたので思わず顔を上げれば、そこには緑間真太郎がいた。思わず「あ」と言うと、視線を下げた緑間が眉間にシワを寄せて眼鏡のブリッジを押し上げた。最近眼鏡の度があっていないとぼやいていたから、きっと不機嫌なわけではなく見えづらいだけなのだろう。私の顔を見ると、眉間の力を抜いて口をへの字に変えた。

「なんだ、帰るのか」

 その言葉に思わず顔の筋肉に力が入る。前にいた女子たちは静かに私たちの会話を聴いている。お互いの腕を抱いてこちらを見る友人たちに思わず苦笑しながら言った。

「今日からは部活、休みでしょ」

 ポケットの中に入っていた飴玉を差し出すと、彼はテーピングの施された左手でそれを受けとった。彼の大きな手に乗せられた飴玉は、すごく小さく見える。あげるよ。そう言って彼の横を通り過ぎた。立ち尽くしていた友人の肩を叩いて「ほら行くよ」と元気に言うと、彼女たちは「マネージャーっていいなぁ」とぼやきはじめた。もう何度も言われたミーハーな言葉に内心舌打ちをしながら「大変だけどね」と言う。
 彼女たちは一度マネージャーを志望した。けれど、百戦百勝をスローガンに掲げるほどの部活であるバスケ部は、そんな生ぬるい覚悟でマネージャーが務まるようなところではなかった。結局、最後まで残ったのは私と桃井さつきのただ二人だけだ。
 彼女はバスケが好きだった。そしてバスケが大好きな幼馴染のことも大好きだった。そして、その相棒である黒子テツヤに恋焦がれていた。
 中学生の使う“愛”や“恋”にどれほどの価値が秘められているのか私にはわからないが、彼女のバスケへのそれはきっと本物の愛。私たちが常日頃感じ、求め、与えているその“愛”というやつは、さっき緑間にあげた飴くらいの安っぽい味しかしないのだろう。私はバスケを好きな訳じゃないけれど、人の役に立てることは好きだったし、苦ではなかった。
 どこのカラオケにしようかと笑みを浮かべる彼女たちのことはもちろん好きだけれど、男が絡むとそうもいかない。だから私は、必要以上に部員と話すことはない。女の世界は生きづらいものだ。


★ ☆ ☆ ☆


 クラスの中にイジメも差別もない。けれど“区別”はある。しっかりと揺るぎないヒエラルキーというものが存在している。よくしゃべりクラスを回す派手でうるさいグループ、そしてそれに逆らわないおとなしいグループ。そしてその両方とコミュニケーションのとれる仲介グループ。私はいわば、その仲介グループにいた。それが一番楽だった。一番楽で、面倒くさい。確かな矛盾だがそれは事実だ。
 そしてこのクラスにはあの赤司征十郎がいる。彼はこのクラス、というよりも全校生徒の絶対的な王であり、そして誰よりも遠くにいた。この小さな世界で一番、私たちの遠いところにいる。ヒエラルキーの一番上に君臨し、すべては彼の意見一つで決まる。「俺にはよくわからないな」という一言で、クラスは彼を除き会議をするし、「これがいいんじゃないか」と言えば、その意見を元にまた話し合いが始められる。彼は頂点にいた。いつも、一人で。立派な椅子に腰を下ろし一人将棋やバスケをしていた。そして、たまに緑間がその相手をする。見慣れた光景。
 私はそんな彼の、わりと側にいた。一軍マネージャーだからという理由が一番大きな理由だ。むしろそれ以外に接点の作りようがない。それはきっと、バスケ部の所属しているほとんどの人間がそうであろう。いつだか青峰も言っていた。「あいつと一緒にいると、たまになんでこいつが隣に立ってるんだろうって思う。試合中はまったく思わねーのに」と。そして私はそれに大きく頷いた。彼の周りには目に見えない、薄い膜が貼ってあるように思える。それに触れることを許されたのは数少ない人間だ。同じ物を持った、同じ人間だけ。
 一学期の中間試験を前に、部活動は全面禁止になっている。それはバスケ部も同じだ。成績が低ければ部活に出られないことだってある。帝光中学は、文武両道を謳っているからだ。
 昨日と同様に廊下を歩いていると、やはり昨日と同様に一人将棋をしている赤司征十郎がいた。ドアの前で少しだけ止まると、彼は私に気がついてくるりと顔をこちらへ向けた。赤い瞳がパチリと私を見つめる。ぞわぞわと、鳥肌が立つ。ブレザーのポケットにいれていた掌を、固く握った。

「なんだ、誰かと思ったら、名字か」

 彼の言葉に私はヘラリと笑う。

「なんだってなによ」

 そうやって、どこにでもいる女の子の顔をして彼に接する。彼と話すのは、少しだけ窮屈だ。わたしの知っている彼は、すべてが見えているかのように喋るし、笑うから。部活のミーティングのときだって、どれだけ頭を心臓を動かしているか彼は知りもしないだろう。
 底知れぬカリスマ性。神からのギフト――つまり才能――を持って生まれた人間。彼は正しい。いつだって最善の結果が導き出されるように行動をする。
 カラカラと回る歯車があるとしたら、それを動かせる唯一の人間だ。自分でパーツを選び、自由に動かせる。気に入らない歯車を取り除き、新しい歯車に付け替え、物語を最善へと動かす。彼は歯車にならない。歯車を動かす立場に選ばれたのだ。才能を動かす才能。赤司征十郎が手に入れた――というよりも、最初から備わっていた――ギフト。

「今日も緑間と将棋をするの」

 上履きが下品な音を立てないように注意しながら彼へと近づく。その行為すら気を使うなんて、馬鹿らしいとも思える。けれど私はずかずかと彼のプライベートゾーンに踏み入れることは出来なかった。ゆっくりと、そっと、静かに近づかなければいけない存在だった。薄い膜に触れるか触れないかのギリギリのところ。
 私の言葉に赤司は口元に笑みを描いて「ああ」と言った。私は彼の半径一メートルのところに立つ。

「座らないのか」

 くいっと顎で自分の前の椅子を指した赤司くんに、私はわずかに目を見開いた。

「いいの?」
「ダメな理由がないだろう」

 それはつまり、“座るべき理由もない”ということだ。けれど彼は、いつものように笑いながら私が座るのを待っている。

「じゃあ、緑間が来るまでお話相手にでもなろうかな」

 私はカバンを床において、彼の前へ腰を下ろした。薄い膜は見えない。
 視線を上げれば、そこには目を細めて笑う王様がいる。太陽の光すら自分のモノにしてしまいそうな彼は、日差しを浴びながら「名字は将棋、知らなそうだな」と言った。

「……さすが赤司くん、お見通しか。さっぱりわからないよ。ボードゲームはオセロくらいしかやったことない」

 すると彼は一瞬きょとんとした顔になり、それからくすりと笑い出す。彼はよくその顔をする。それが少しだけ歳相応で可愛らしいと思っているのは、私だけの秘密だ。
 彼は笑い終えると、桂馬をパチリと動かした。さっぱりわからないシステムに、私は頬杖をついて彼の指先を見ていた。「なら、オセロでもやろうか」。その言葉に、私は首を横に振る。

「やだよ、私絶対勝てないもん」
「やってみなきゃわからないだろ」
「えー……赤司くんがそれ言う?」

 勝つことが基礎代謝と豪語するバスケ部の主将が言って良いセリフではないだろう。彼は穏やかな雰囲気のまま将棋を指していく。
 ふむ、と少しだけ考える素振りをするけれど、それすらもわざとらしく見えてしまうのはなぜなのだろう。本当にわざとなのか、それとも彼が“悩みそうもない人間”だと、私が思っているからなのか。
 綺麗に整えられた薄ピンクの爪。骨ばった指がいつもとは違って見える。じっと将棋盤を見つめているその視線が、コートを見つめる目つきと違い新鮮だ。彼のこんなに近くに寄ったことは、あまりなかった。あったとしても、彼の顔をまじまじと見ようとは思えなかった。彼は、あまりにも遠く、神聖な美しさと完璧さを持っていたから。

「……小さいオセロ、あるじゃん」
「ん? あぁ、折りたためるようなやつか」
「持ってくるからさ、明日」

 顔を上げた綺麗な双眸が私を見つめる。それだけで動き出す心臓、流れだす血液を、私は確かに感じた。触れてはいけない聖域に確かに触れてしまった背徳感と、優越感だ。コートに立つ“主将”とはまったく違う顔をした赤司くんは、暖かな陽の光を浴びて目を細めた。

「わかった、明日もここで待ってるよ」

 キラリと光るカーマインが網膜にこびりついて剥がれないだろうと思った。それはまるで絵画のように美しく、魅了される。
 私は今日、初めて“彼”と会話をしたのだろう。こんなにも普通に会話が出来るなんて思ってもいなかった。最初に感じた窮屈さも息苦しさも、とっくになくなっていた。彼、赤司くんのことを少しだけ、人間らしいと思えた。


☆ ★ ☆ ☆


 カバンにオセロを詰め込むと、チャチなそれはかたりと音を立ててカバンの中で右往左往とする。まるで私の心境のようで、少しだけ気まずい思いをする。誰に、とかそういうわけではなく、ただ彼とオセロをする約束をしただけでそんなふうになる自分が、少しだけ、信じられなかったのだ。
 友人たちはマジバで勉強会だと張り切っていたが、私は笑顔で辞退した。今日は先約があるんだ、と言えば、なにやらニタリ顔で私の背中を叩いた。わかっているんだか、わかっていないんだか。私にもよくわからない。
 踵を引きずらないように気をつけながら、彼の居る空き教室へと向かった。すれ違う生徒の目が気になるのは、これからの行為への罪悪感があるからだろうか。“主将”と“マネージャー”ではなく、ただの男女として向かい合うことへの、罪悪感。
 彼は昨日と同様に窓際の席に座っていた。同じクラスなのに、なぜ彼のが先にここに来ているのだろうという疑問はなかった。彼はたまにSHLを抜け出すから。机に将棋盤はなく、彼は椅子に片足を乗せて窓の外を見ていた。廊下にはあんなに沢山の生徒がいたのに、今は笑い声の一つも聞こえない。まるでここだけ彼の世界のようで、一瞬、足を踏み入れることをためらった。けれどそんな私に気がついた……わけではないのだろうけれど、赤司くんが顔をこちらに向けた。

「ああ、待ってたよ名字」
「……うん、ごめん、お待たせ」

 肩からずり落ちたカバンを握りしめて、彼の前の席へと座った。昨日と同じ景色にちょっとだけ安心した。カバンから小さなオセロ盤を出すと、赤司くんが目を瞬いて「こんなに小さかったか」と首を傾げた。

「小さいころに見たから、大きく感じたんだろうね。私の部屋で見つけて、ちょっとびっくりしちゃった」
「そう、だな……まぁ、教室でやるなら十分だろう」
「教室でがっつり将棋やってる赤司くんが言っても、説得力はないけどね」
「はは、そうかな」

 25cm角のそれを机の上に広げ、マグネット式になっている石を四つ並べた。

「先攻は名字に譲ろう」

 余裕綽々といった表情の赤司に、私は「そりゃどうも」と可愛げもなくお礼を言った。さすがは主将だ。必ず勝つとわかっている。私も、勝てないとはわかっている。けれど、少しの希望すら捨てられないのはどうしてだろう。勝ちたいと思ってしまっている自分が、客観的見え、実に愉快だった。

「黒でいい?」
「お好きなように」

 私を見て、私と話して彼は微笑んでいる。夢心地とは、今の私の状態を指す言葉かもしれない。私は震えそうな指を叱咤して、黒い石を置いた。彼は微笑みながら、私の指先を見ていた。
 結果を言うならば、私は隅を一つしか取れず、18対31、20対29、15対34のボロ負けであった。彼と心理戦をしようなんて思っていた私が阿呆だったと痛感した。本当に、痛いほどに。「参りました」と溜息を吐いて頭を下げると、彼は「なかなか面白かったよ」と言った。
 彼にとって勝つことが基礎代謝ならば、それは“なにが”面白かったのだろう。勝負事は勝つから面白い。勝つか負けるか、それがわからないから楽しいのだ。私はそう思っている。サッカーだって野球だって、点差がひっくり返るかもしれない。逆転ホームランがあるかもしれない。そういうドキドキやワクワク、という感情があるから見ているのだし、面白いと思うのだ。勝つことが基礎代謝なのに、それは面白いのだろうか。私は、呼吸が面白いと思ったことなどないけれど。
 オセロ盤をひっくり返して、石を仕舞う。パタリと二つに折って、持ってきたときと同じ状況に戻る。窓から差し込む光はやわらかなオレンジ色になっていた。赤司くんは目を細めて「もうこんな時間か」と空を見た。

「そろそろ帰ろっか。明日からテストだし、赤司くん……は勉強しなそうだけど」
「失礼だな、してるさ」
「する意味なさそうだけど」
「予習、復習は学生の義務だぞ」

 はは、と笑いながら彼は立ち上がる。赤司くんてそんなジョーダンも言うのか、と驚いたがそれを顔に出すことなく地面に置いていたカバンを持ち上げて、ファスナーを開ける。ジリジリという安っぽい音が、二人だけの教室に大きく響いた。開けたカバンの中は、スケジュール帳や文庫本、コンビニでかった飴などがまぜこぜになっていて、赤司くんに見られる前に急いでファスナーを閉めた。
 赤司くんのカバンは、外見がとても綺麗だった。もちろん多少の傷や汚れはあるけれど、私のよりも数倍綺麗だった。持ち物も、持つ人によるということなのだろう。赤司くんはカバンを肩にかけて、首を傾げた。

「電車か?」
「え、うん、そう」
「そうか……途中まで一緒に帰っても?」

 見たこともない表情をするから、私は思わず固まってしまう。そんな風に笑うことも、出来るのか、彼は。表情筋を無理やり動かして、なんとか表情を作って頷いた。私の答えに満足した赤司くんは背を向けて歩き出したので、私も同じように彼の斜め後ろを歩いた。隣に並ぶ勇気は、まだ私の中に存在していない。これから出てくるかもわからないけれど。斜め前を歩く“男子”の存在に、心臓が私の身体を蹴り上げる。イヤというほどに意識しているのだと思い知り、とたんに羞恥が募る。彼の最寄り駅は知らないけれど、途中まで一緒に帰るなんて、苦行とも言える行為である。
 窓から差し込むオレンジ色の夕日と、艶やかな彼の髪の毛と、鼻孔をくすぐる廊下独特の匂い。
 全てが嘘みたいに輝いて見えた。全てが本物だと知らせるように、私の頭が痛み出す。キャパオーバーだ。彼の髪の毛がさらりと風に流れ、私はただそれを見つめているだけで、よかった。それだけで、心が満たされるような気がしたのだ。


☆ ☆ ★ ☆


 才能を持つということは、それだけのリスクがある。神様は二物も三物も与えるけれど、それ相応のデメリットも与えるのだ。勝手な話だ。人様から要りもしない妬み、羨望、嫌悪を押し付けられる。そして天才は“自由”という“孤独”を手に入れる。それは誰かから見たら羨ましいものかもしれない。当人たちはどう思っているのか、検討もつかないが。
 赤司くんは、キセキの世代と持て囃されるあのチームの中でも、やはり少しだけ浮いているように見えた。これは、体育館の隅でスポドリを配る美も才もない一般的女子中学生から見ての個人的な意見で、他の生徒がどう思っているのか、やはり知らない。けれど私は、そんな風に感じていた。才能の上に立つ才能というものは、どれだけの重い荷物なのだろうか。歯車を背負った天才をまとめ上げるというのは、どんな苦しい枷なのだろう。全てを見通せてしまうほどの眼と脳を持った彼は、どれだけの未来から眼を背けようとしたのだろう。
 彼はきっと、弱音など吐かないのだろう。
 隣にいた緑間が、私の独り言に反応を示した。「赤司のことか」と眼鏡を拭きながら問うた。十分休憩に突入した部員たちが、一斉に床に倒れる。じっとりとした空気が不快感を煽る。私は赤司くんの横顔から視線を外し、床に転がる部員へ向けた。

「彼は、ちょっと強すぎるから、崩れていかないか心配だよ」
「は?」
「均衡が崩れたら、怖いなぁって話」

 暑い暑いと、足元にある小さな窓を開け始める。赤司からちゃんと許可は取ったのだろう、彼は何も言わずに紫原と話をしていた。部員たちが開け放った窓から、新鮮な空気が体育館へと送り込まれる。むわっとした熱気と涼しさを兼ね揃えたその風に、部員たちが「きもちー」と声を揃えて叫んだ。緑間も眼鏡をかけ直し、呆れた様子でそれを見ていた。

「あいつのことは、俺にはわからん」

 彼は口を結び、それ以上なにも言わなかった。
 床に寝そべったままの部員に、赤司くんが近づいた。彼はいつものように笑いながら、彼らに「そんなに元気なら外周でもしてこい」と言い放つ。彼らは「赤司っちオーボー!」などと喚きながら、床から起き上がろうとはしなかった。

「今日の降水確率、いくつだっけ」
「おは朝では30%だったのだよ」
「じゃあ降るかな。おは朝、天気予報だけはからっきしだよね」
「……そんなことはないのだよ」

 立ち上る雲は真っ白で、それを浮かべている空は澄んだ青色だった。春と夏の境目で、私は自覚したのだ。彼をどうしても気にかけて、目で追って、余計なことまで考えてしまい、彼から意識を外せないことを。彼が私のことを見てくれなくても、私は彼を見てしまうのだ。名前をつけるほど大層な感情ではないことも、笑みを浮かべる赤司くんを見て気がついた。私は彼になにも求めていない、自己満足の感情だと。


☆ ☆ ☆ ★


 あの時のオセロ盤の配置やオレンジ色の夕日まで鮮明に思い出せるほど、私は彼との時間を胸の奥底に保管していた。廊下独特のあの匂いを嗅ぐだけで、彼と歩いたあの時の心拍数がよみがえるほどに。
 長袖のワイシャツから半袖のワイシャツへとシフトチェンジし、肌を隠す布の面積がどんどんと狭くなる。けたたましいほどの蝉の鳴き声が、体育館によく響いている。練習している後輩たちを見ながら、私は自分の居場所がなくなっていくのを肌で感じた。部員たちの声も、動きも、すべてが記憶と異なっていくのだ。世代交代。盛者必衰、とは少しだけ違うかもしれないけれど、そんな言葉が頭に浮かんだ。カバンを肩にかけ直して、カタリと音を立てないそれに少しだけ寂しさを覚えたのは、きっとあのときのオセロを思い出してしまったからだろう。私のカバンにオセロが入れられることはもうないだろう。
 部室のドアを開けて、並んだトロフィーの数をひいふうみいと数えながら、じっと座っている赤司くんへと近づいた。
 盛者必衰。彼はきっと、衰えない。そして彼らも。けれど、もうすぐ部活は引退しなければならないのだ。安っぽい青色のベンチに不釣合いな彼は、私たちの主将は、そこに座りながら並べられたロッカーを見ていた。浮かび上がる喉仏がいやに色っぽく見えて、ちょっとだけ息を呑んだ。細められていた目がぱちりと開いた。

「名字か」
「……なにしてるの、赤司くん」

 レギュラーのみ並べられたロッカーは、薄汚れたものやわりと綺麗なものと様々だ。黄瀬のロッカーには鍵がしっかりとかけられているし、青峰のロッカーからはグラビア雑誌であろう紙がはみ出ている。そしてそこには、自分の字で書いた名前が貼ってある。眺めても楽しいものではないはずだ。
 上履きが不快な音をたてないようにと注意することはなくなった。普通に歩いてもかかとを引きずったりしないからだ。彼の隣に座りのは躊躇われ、少し離れたところで足を止めた。薄い膜が彼を包んでいる。

「座らないのか」

 前と同じように問う赤司くんに、

「いいの?」

 と、同じように返した。彼はそれを思い出したのか、少し笑って「いいに決まってるだろう」と言った。前回とは違う受け答えに、少しだけ嬉しくなったなんて、可笑しいだろうか。「だめじゃない」からの「いいに決まってる」なんて、それは私が彼のプライベートゾーンに足を踏み入れる“理由がなくても”いいということだ。
 隣へ座れば、ベンチはギィ、と悲鳴をあげて私を受け入れた。床にカバンを置くと、どすりと鈍い音がした。薄い膜は見えなかったが、窮屈さを感じた。

「……その紙、なに?」

 聞いてはいけない気がしたけれど彼はきっと聞かれたいだろうと、私は図々しいほどの自信があった。彼はきっと私には聞いて欲しいのだと。そうでなければ彼はとっくに私を帰しているだろう。手に持っていた真っ白でシワひとつないその紙を裏返すと、そこには文字が書かれている。

「退部届けだよ」

 所属している部活名。氏名。そう書かれた紙には、見慣れた字で名前が書かれていた。読書家の彼らしい、男にしては綺麗なその細い線を私はじっと見つめた。

「そうなるって、わかってたの」

 そんな言葉しか出てこない自分がとてつもなく小さな存在であることを知る。私にも、彼にも、多分緑間にも、彼にどんな言葉をかけてあげるべきなのかわからない。
 退部届けを半分に折り、その折り目を何度も指でなぞっている。その行為になんの意味もないことくらいは、私にもわかった。

「才能を見出して、ひとつ以外の可能性を捨てた。それなのに、気づいた時には遅かった。どうすることもできないと悟って、俺は見て見ぬふりをしたんだ」

 彼にはきっと、小さい小さい変化のカケラすら見えていたのだろう。けれど、それが見えていようがなかろうが、彼にできることはなにもなかった。
 青峰が開花してから、他のみんなも才能を開花させていった。きっとそれは、赤司くんすら想像していなかったことかもしれない。“人より少し秀でた存在”であった彼らは、“黒子テツヤ”と一緒にバスケをしていくうちに、自分自身の可能性を高めすぎてしまったのだ。黒子テツヤのパスで、思うように試合が出来すぎてしまった。高められた可能性は、秘められていた才能を瞬く間に開花させた。
 気温は暑いほどなのに、ベンチに触れている手がどんどん冷たくなっていく。青峰と黄瀬の間にある綺麗なロッカーには、ネームプレートが入っていない。透明のプラスチックが、蛍光灯の光を反射して白くなっている。紙が潰れる音がして慌てて隣の赤司くんを見ると、彼は両手で退部届を丸めていた。

「俺は何も間違ってない。全てに勝つ俺は、全て正しい」
「……うん」
「退部したいなら、すればいい。それだけのことだ」
「……そうだね」
「大切なものが欠如している? 笑わせるな」

 まるで親の仇でも見るような目つきで、握りつぶされた紙を睨んでいた。欠けた歯車の代わりになるものは、彼は持っていない。あの歯車は、アレしかなかったのだ。噛み合わなくなったパーツはぼろぼろと落ちていく。一つ一つ、ゆっくりと、バラバラになっていくのだ。

 ――均衡が崩れたら、怖いなぁって話

 あのときのセリフが、あのときの光景と共に蘇ってくる。紫原に笑いかけ、部員たちに命令を下すあのときの赤司はもう、ここにはいないのだ。彼の均衡は崩れてしまった。
 まぶたを閉じても彼の赤色が見えるほど、私は彼に囚われたままだ。名前のない感情だけがひとりで走っていく。頂点に立ち背を向けて、下の様子など見もしない彼の背中を目指して、走っていく。彼の目に映った景色はなんだろうか。そこに彼らはいるのだろうか。
 息苦しさから逃げるように、私は息を吸い込んだ。私はこれからも、彼の下で生きていく。彼が自分の頭を撃ちぬくその日まで。

12.12.20
Happy Birthday AKASHI.