お話 | ナノ

 細長い箱から、細長い棒を取り出す。人差し指と親指で静かに抜き取って、空いた穴を埋めるように他の棒がかたりと動く。なんの変哲もないその棒を、取り留めもないことを考えながら口にくわえ、小さな花柄のポーチから、不似合いな蛍光カラーのライターを取り出した。子どもがイタズラをしないように工夫されたそれを押すのは少しだけ億劫だ。カチリと音がして、火がついた。フィルターを通した煙を口に含んで、肺へと送る。
 わたがしをちぎったような、薄い雲が流れていく。雲になりそこなったような煙が私の口から出ていき、空に届かず消えていった。二階から見える景色も、悪くはない。見えるのは、ベビーカーを押すお母さんや、買い物帰りのおばさんばかりだけれど。住宅地に建った築十年のアパートから見える景色にしては、平和で、なかなかの物だろう。窓のサッシのところに腰を下ろし、空を見上げた。窓を開けっぱなしにしているから、部屋に戻った時にはすごく寒いんだろうなぁと思った。
 ベランダ用のクロックスの穴から、冷たい空気が入り込んでつま先の感覚が遠のいていく。ショッピングモールで買ったニーキュッパのルームウェアも、外に出るには薄手すぎるのだろう。けれど部屋に戻るのも面倒で、結局自分の肩を抱き煙草を噛んだ。
ぼぅっと、流れて形を変えていく雲を眺めながら、くだらないことを考えるのが昔から好きだった。たとえば、宝くじが当たったら。好きな彼が、私のことを嫌いになったら。世界征服が出来るなら。そんなことばかりと考えて、想像して、満足する。

「まーたそんな格好して」

 男らしい低い声に、柔らかなトーン。愛おしさが溢れて、こぼれ落ちるような気がした。歯で挟んでいた煙草を人差し指と中指で挟んだ。後ろを振り向くと、マフラーをほどきコートを脱いでいる玲央がいた。うっすらと鼻が赤くなっていて可愛らしい。私腰を上げ、彼をベランダへと招く。

「いらっしゃい、来るかなぁって思ってたよ」

 彼はいつもの制服姿で、私の隣に並んだ。狭いベランダにこうやって二人並ぶのは窮屈だけど心地が良かった。玲央はコンクリートの塀に肘を乗せ、沈んでいく太陽を眺めていた。そして私は、そんな玲央の横顔を眺めなた。つやつやの白い肌に、天使の輪が輝く黒髪。まつげも長く、目もパッチリとした二重だ。彼は、美人だ。美しいという言葉がよく似合う。玲央は太陽を見たまま、広角をあげてにこりと笑った。

「見すぎよ。穴が空くわ」
「空いても美人よ」
「あら、ありがとう」

 私はベランダに置いてある灰皿に、煙草を押し付けた。じゅ、と変な音がして火が消える。黒くなった部分で、少しだけ灰皿の灰を綺麗にしてから捨てた。吸殻、そろそろ捨てなきゃ。そう思うだけで、実際捨てるのは一週間後だろう。私は私のことをよくわかっている。だけど、捨てられない。捨てるのは一週間後だ。
 成人を迎えた私がこうやって玲央と逢瀬を重ねることは果たして犯罪なのだろうか。そんなことを、たまに考える。汚い吸殻を見て、なんだか少しだけ悲しくなった。私の未来を見ているようで。

「戻ろうか。制服じゃ、寒いでしょう」
「名前の格好のがよっぽど寒そうよ」
「結構寒いよ」
「馬鹿ね」

 ひらひらと舞うカーテンを抑えて、二人で部屋へと戻った。しっかりと鍵を締めて、カーテンも隙間がないようにぴったりにした。世間から隔離された空間で、玲央が私の体を抱きしめた。胸板に鼻を当て匂いを嗅ぐと、いつもの彼の匂いがした。柔軟剤の香りだ。腰に回された腕は見た目によらずがっちりとしている。この美しさと逞しさが、とても素敵だと思う。

「やだ、カダラ冷たいじゃない」
「うーん、さすがに薄着すぎたかなぁ」
「本当に馬鹿ねぇ」

 部屋には玲央の私物や、雑誌や、私の下着が転がっている。生活感の溢れた、悪く言えば散らかったその状態を、彼はひどく気に入っていた。綺麗な部屋も好きだけれど、こうしてお互いの私物が混ざり合い部屋を汚している状態も、好きだと言う。彼は美しいけれど、中にはひどく汚れた男がなりを潜めている。
 ルームウェアの裾から手をいれて、私の下腹部を撫でる手だって、こんなにも綺麗で繊細だと言うのに、動きは欲を滲ませた男のソレだ。ぞわぞわと鳥肌が立ち、彼の手の冷たさに思わず眉をひそめた。

「玲央、手冷たい」
「あなたのカラダの方がもっと冷たいわよ」
「ん……、」
「ほら、顔上げて」

 重なり合う唇から漏れる息が気持ちいい。綺麗な瞼にニキビのないおでこ、長いまつげ。ああ、幸せってきっと、こういう感情なのだろう。心臓が締め付けられるように痛く、苦しいこの時が幸せなのだろう。二人を繋ぐ糸が切れて、優しく笑う玲央の顔にさっき考えた、くだらない「もし」を思い出す。

「玲央はさ、」

 彼は私の言葉に耳をすませ、首をかしげた。

「……世界征服できたら、なにがしたい?」

 口からこぼれたのは、言いたかった「もし」とは違う「もしも」だった。聞くだけの勇気が私にはなかったのだ。欲しい言葉を、彼が必ず言ってくれるとは限らない。聞いたくせにその答えに不満など抱きたくはない。私の話に、玲央はパチパチと目を瞬かせたあとに堪えきれずに吹き出した。「ぷっ、」と口からも漏れた笑い声に、私は「笑わなくてもいいじゃない」と言った。

「いいえ、あなたがうちの主将みたいなことを言うもんだから」
「噂のセーチャン?」
「そうよ」

 くすくすと笑って私の頭をゆっくりと、髪の毛の感触を確かめるみたいに撫でた。セーチャンと私は似ているのだろうか。今度は私が首をかしげる番だった。彼はそんな私の気持ちを察したのか、「セーチャンと名前は全然似てないわよ」と笑った。
 玲央が私の腰を引いて歩き出す。まるで自分の家のような振る舞いに、こっちが驚くことも少なくはない。私を小さなベッドに座らせて、ゆっくりと押し倒す。お気に入りの掛け布団が端の方でくしゃくしゃになっているのを見て、明日は布団をほそうと決めた。明日の天気は晴れだったか、雨だったか。
 玲央が静かにブレザーを脱いだ。白いワイシャツから見えるヒートテックに少しだけがっかりする。玲央は私のおでこに口づけを落とし、まるで井戸端会議をする奥様のように、ひっそりとした声で私に話しかける。

「世界征服が出来たら、そうね……私と名前で国を作りましょう。私たちだけの国を。食べ物が美味しくて、お酒も美味しい、愛の国。大きなお城に二人で住むのよ。ああ、でも家政婦さんは雇いましょうね、あなたお掃除苦手だし」
「しないだけだもん」
「それが駄目なのよ」
「料理は私?」
「名前の手料理が食べたいわ。私、あなたの味付け凄く好みなの」
「味付けだけなの?」
「全部好みよって言ってほしいのかしら」
「……煙草は安くしようね」
「いっそ禁煙の国にしましょうか」
「やだ、口がさみしい」
「私がいるじゃない」

 擦れ合う布の音を聴きながら、私たちは語り合うのだ。小さなベッドという愛の国で、ありもしない未来を想像しては笑い合う。こんな日が続けばいい。別れなんて、来なければいい。こうして二人で愛の国に閉じこもっていたい。ずっと、なんて使い古された言葉は使いたくない。だからせめて、私が死ぬまでは。

12.12.04 / 醒めない夢になりますように