お話 | ナノ

 一年間。三六五日。それを三回繰り返すだけで、中学校を卒業してしまった。いや、閏年があったからプラス一日だ。本物のバラの花を胸のポケットにいれて、卒業式を終えた生徒たちが体育館から出て行く。中には泣いている女子も、笑っている男子も、在校生に飴玉を投げる男子も、友達と手をつないで歩く女子もいる。泣いているクラスメイトの背中を摩りながら、私はしっかりと背筋を伸ばしてあるいた。
 冬の終わりの匂いがする。それからゴムの匂い、香水の匂いも。パイプ椅子が軋む音、別れを惜しむオルゴールのBGMが、どこか夢のようだ。本当にこれは、現実だろうか。湧かない実感に戸惑う時間すらない。私はただ、作られたアーチを潜りながら、ブレザーの胸ポケットに刺された薔薇に触れた。
 最後の制服姿を惜しむように写真を取り、仲のいいクラスメイトを集めて、カラオケルームで歌を歌った。ふざけて合唱曲を入れたり卒業ソングを涙ぐみながら歌ってみたり。ああ、卒業したんだなぁという実感はどうしたって湧いてこない。また明日。そう言って手を振れば、同じような今日が、明日にも来そうな気がした。クラスメイトの男子も女子も、フライドポテトを食べながら笑っている。グラスについた水滴を指で拭いながら、私はカラオケを歌う高尾を見ていた。また明日。そう言ったら彼は、「おう、またな」と笑うだろう。なんとなくそんな気がした。


 ガタリゴトリ。電車が揺れる。友達はみんな降りてしまった。午後九時をすぎた電車には、もう私と、高尾と、寝ているサラリーマンしかいない。充電がもう底をつきそうな携帯を握りしめて、隣に座る高尾の肩に触れないように気をつける。意識しすぎてバカみたいだと言われても、仕方がない。意識せずにはいられないのだ。
 窓からは綺麗な夜景も、人の姿も見えやしない。ただ冷たいコンクリートだけが存在している。真っ暗の世界で、明るい車内に取り残された気分になる。ぐらりぐらりと揺れる車内で、ついに肩がぶつかった。

「わり、」
「ん、へいき」

 彼がこっちを向いたので、私も同じように顔を向けた。彼はすっきりとした顔をしていた。卒業したことなんてないような、いつもどおりの顔。「高尾、高校どこだっけ」と、気になっていたことを聞いた。結ばれたネクタイを指で弄びながら、高尾はにやりと笑って「秀徳」と言った。

「え、頭いいとこじゃん……あ、推薦か」
「今ちょっと俺のこと馬鹿だと思ったっしょ?」
「気のせいだよ」

 高尾はひでーなぁと笑いながら、ネクタイをほどいた。確か秀徳は、学ランだった。彼は確かにブレザーよりも学ランが似合うだろう。その姿を一度、見てみたかったと思うのは、欲張りだろうか。欲しがりだろうか。高尾はネクタイを折りたたんで、「これも最後か」と言った。

「秀徳、学ランだもんね」
「そー。俺めっちゃ似合うぜ」
「想像できるよ」
「それ以上に似合うから」
「はははっ、まじかぁ」

 高尾との会話は、ひどく心地がいい。一年間。といっても、学校で話したのなんてきっと二十四時間もないだろう。高尾は目を細めて、自分のネクタイを見ていた。私は携帯を開いて、時間を確認した。そして電車が止まる。駅で数人のサラリーマンが降りていった。私の駅まで、あと二つ。高尾の駅まで、あと一つ。
 傍らにおいたリュックに携帯をしまった。これ以上充電を使えば、迎えの車を呼べなくなってしまう。高尾は胸のポケットに刺したままの、本物の赤い薔薇を手にとった。電車が動き出し、また肩がぶつかった。今度は謝らなかった。高尾が言う。

「お前、花言葉知ってる?」
「えーっと……情熱とか?」
「おっ、意外と知ってんな〜」

 ケラケラと笑うと、その薔薇の茎にネクタイを結び始める。大きいネクタイと小さな薔薇では、バランスが悪い。高尾は「あ、やばいこれ結べねーわ」とぼやきながら、なんとかちょうちょ結びをした。ゆるゆるなネクタイに、小さな赤い薔薇。
 情熱、愛情、美……いろいろな花言葉がある。彼はネクタイが外れないように注意しながらそれを持ち、私の膝の上にそっと置いた。

「え、なに?」
「それ、お前にやるよ」

 男子用のネクタイと、赤い薔薇。
 卒業式では、恒例行事とも言えるネクタイ交換。卒業生同士が交換し合うこともあるし、後輩が「お願いします」と頭を下げてもらう場合もある。第二ボタンの代わり、というやつである。赤い薔薇も、告白の代わりに使われたりするのだ。
 膝に置かれたその二つを手にとって、私は「これさ、」と声を搾り出す。

――次は、△△駅――

 アナウンスが私の声を遮った。隣に座る高尾が、私の手に自分の手を重ねた。触れ合う体温は、やけに冷たい。ああ、そうだ、まだ春というには早いのだ。ごうごうと、車内の暖房が脚を暖める。高尾の手が、離れた。そして、電車のドアが開いた。高尾は足元のリュックを手に取り立ち上がる。私はそれを、網膜に焼き付けるように、見つめた。
くるりと振り向いた高尾が、見慣れた笑顔で笑う。

「またな!」

 プシュー、とドアが閉まる。ホームを立っている高尾が、私を見たまま、動かない。私はこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、貰った薔薇の茎を握り締めた。刺のない薔薇が、憎く思ったことはこれが初めてだ。この涙を痛みのせいにすることすらできない。高尾は困ったように頬をかいて、立っている。電車がゆっくりと動き出した。世界がまた暗くなる。窓にはもう、一人で座る私しか映っていない。
 いつ訪れるかわからない“また”を、私はずっと待ち続ける。終点はすぐそこにあるのに。

12.11.21