お話 | ナノ

 あ、いい匂いする。
 人間は緊張感のある場面でこそ、余計な思考回路を働かせ世界を拾う。軽い現実逃避なのかどうなのかわからないが、出来れば本当に逃避させていただきたい。それが出来ないとわかっていても人間はどうにか現状を打破しようと頑張るし、考えるし、諦める。そしてまた諦めちゃダメだ、と自分に言い聞かせるのだ。逃げ道がないことを知っていながら頑張っているフリをするのは、純情ぶりたいからだと、なんとなく、自覚している。
 思えば始まりからおかしかった。慰安旅行に行きたいと言い出したのは私で、珍しくそれに同意した荒北にみんなが驚いた。そして東堂は言った。

「俺の家に来るといい。特別に招待してやるのだよ」

 首元のネックレスがきらきらと光を散りばめて私たちを誘った。キャリーバッグを転がしながら彼の家につけば、そこにいたのは東堂だけ。ひっぱるように連れてこられたのは彼の部屋。そこで私は違う、と思った。
どくん、どくん。心臓が身体中を奮い立たせる。温度が上がっていくのがわかる。溜まった唾液を飲み下すと、ごくりと音を立てて喉が動き、なんだか私が物欲しそうにしてるみたいで恥ずかしくなる。
 東堂の手のひらは暖かいんだな、と、また変なことにばかり思考が働く。しっとりと手汗をかいているのは、彼も少しは冷静でいられなくなっているからだろうか。私から見える東堂はいつものように飄々とした笑みを浮かべたまま、静かに、私を見下ろしている。熱いくらいだ。掴まれた手首の脈打つ音が脳に伝わる。

「と、うどう」

 やっと絞り出した言葉はどうにも情けなく、あまり女子らしいものではなかった。いつもの東堂ならば茶化すなり笑うなりしてくれただろうに、今の東堂はそんなことに構ってくれる様子はなかった。薄い唇を視界に入れた瞬間、思わず目をそらしてしまった。

「どうした名前」

 聞かないでくれ。出来れば猶予を与えないでほしい。東堂のそういうところがとても憎たらしい。嫌いだとも思う。なにこれ、って笑い飛ばしてしまえばいいのに、私の喉は震え笑い声も笑みも作れない。試しに腕を持ち上げようとするけれど、ぴくりとも動かない。はっ、と出た息に、緊張する。わかっていたことなのに、逃げ道はないと再確認した。そう自分に言い聞かせた。
 すっと通った鼻筋と薄い上唇、少し細く釣りあがった目。確かに整っている。自分でスリーピングビューティーなんて名乗るだけはある。けれど今更だ。本当に今更で、私はとっくにそんなこと知っている。頭の中でガンガンと警報が鳴らされる。今更だ。そう言っている気がした。

「や、めて、ほしい」

 東堂、と名前を呼んだ。くだらない懇願を彼は笑う。

「やめんよ」

 その一言には張り詰めた空気のようなものが含まれていて、それを突きつけられた私は動けなくなる。彼は私を見下ろしたまま信じられないと言った風に声を出して笑い、ゆっくりと顔を近づけた。後ろはふかふかのベッド、前は東堂尽八。思わず息を止める。

「逃げ道がないと言い聞かせて、俺にすべてを任せるとはお前もなかなか図太いな」

 だから憎たらしいと言っているんだ。反論すら浮かび上がらない脳はすっかり麻痺していて、正常には動かない。心臓がうごく理由はこの状況に緊張しているからではない。恐ろしいからだ。東堂は私のことをわかった上でこの状況をつくり、すべてを暴こうとしている。違う、という言葉が喉に張り付いたまま、東堂のもとへは届かない。腕をぐっとあげられ、片手でまとめられる。顔を遠ざけた東堂が言う。

「俺はいつもお前の気持ちを尊重してきたと思わないか?」

 答えになってないよ。それは、私の気持ちへ対する答えではなく、この行為そのものの答えだ。私が求めているのはもっと、根本的なことなのに。乾いた喉の奥が痛む。頭はぼーっとして、視界がどんどん狭まっていく。もう東堂しかいない。開いていた手を握りしめると伸びた爪が手のひらに刺さり、切っておくべきだったな、と、はしたないことを考えた。

13.08.08
Happy Birthday to you.