▼ Tell me why.(木吉)
「リコ」
あなたの唇から、その言葉が紡がれた時、私の心がどんな音を立てて潰れたか。
きっとあなたは知らない。
知らなくて、いいよ。
私と木吉鉄平は、小学生の頃からの付き合いで、所謂腐れ縁というやつだ。
木吉からしたら、ただの同級生かもしれない。
けど、私は違う。
私はずっと、好きだった。
私が幾度も願って、でも一歩踏み出すことが出来なくて、叶わなかったささやかな願い。
木吉に名前で呼んでほしい。
時は流れ、私達は高校二年生になった。
あなたと出会ってからはや11年。
まだあなたは私の名を呼んではくれない。
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窓の外を見ると、霧雨が春の景色を白く煙らせ、どこか物憂げでノスタルジックな雰囲気に変えていた。
今日は部活もないし、そういえば図書館に返さなければならない本があったはず。
帰り支度の手を止めて、本だけ持って図書室に向かう。
放課後の図書館は、ちょっと異様に感じるくらい人気がなかった。
それにしても、図書委員まで居ないのはどうかと思う。職務怠慢だ。
誰も居ないカウンターに本を置いて本棚へ向かうと、並べられた机に見慣れた大きな背中を発見した。
近づいてみると、そいつは予想通りの人物だった。
木吉が、椅子に窮屈そうに座って、机に突っ伏している。傍らには重ねられた太宰の文庫本。
こんなやつなのに頭も良くて、太宰を読んじゃうなんて、嫌味でしかない。
でも、そこも好きだと思う自分が居るのもまた事実。
溜息をついて、私は木吉の向かいに座った。
そして、目に入ってきた柔らかそうな茶髪に思わず手を伸ばす。
いつもこの髪は私の手の届かないところにある。今くらい触ったっていいよね。悪いのは私じゃなくて、無防備に寝てる木吉だから。
もふもふの髪を梳いたり、撫でたり、だんだん楽しくなってきて夢中で遊んだ。毛玉で遊ぶ子猫も多分こんな気持ちなんだろうな。
いい気分で撫で回していると、身じろぎして木吉の手が伸びてきた。
ぴたりと空中で動作をやめた私の手首を木吉の大きくて無骨な手が掴んだ。
「木吉、起きたの?」
顔を覗き込もうとした私から己を守るようにもう一方の手で頭を覆う。
「名前……待ってくれ、いまは顔見られたくない」
「えっ……名前」
「ん?」
「…………はじめて、木吉に名前で呼んでもらえたの。はじめて」
木吉は小さく「しまった」と言葉を漏らした。
私はと言うと、嬉しすぎて現実についていけない。そもそも、これは現実なのか。
「ねえ、木吉。なんでいま顔見ちゃダメなの」
「なんでって、恥ずかしいからだ」
「なんで?」
すかさず質問を重ねると、木吉は溜息をついた。もう勘弁してくれ、といった様子で。
「…………そりゃ、起きたらすぐ近くに好きなやつがいて、ましてや頭を撫でたりしてたら、恥ずかしくもなるだろう」
突っ伏してるせいでくぐもってるけど、確かに彼は言った。
『好きなやつ』って、この場合、私以外は見当たらないよね?
「……別に私、悪くないからね。好きな人がこんな無防備に寝てて、撫でないでいろっていう方が無理な話だと思う」
さあ、顔を上げて。あなたはいまどんな顔をしているの。
そうだ、落ち着いたら聞いてみよう。
相田さんのことは名前で呼ぶくせに、なんで私のことは名字で呼んでたのかって。
あと、さっき名前で呼ばれたのは心の中ではそう呼んでたからだとか、そんな都合のいい解釈をしちゃってもいいのか、とも。