▼ tear drop
顔を下に向けると、こめかみから首筋にツゥと汗が伝った。五月の日差しは真夏のそれほど強くはないけれど、しかしじりじりと追い詰めるように水分を奪い取ってゆく。
疲れないから障害走を選んだ。でも今はそれを後悔している。
自分の手にあるカード、そこに書かれている言葉を見てよぎった顔に、瞬時によりにもよってそのひとを思い浮かべてしまった自分に、絶望した。
「国見ちゃーーん!」
聞き慣れた声がする。たくさんの声援の中から、その声は確かに俺の耳に届いた。振り向いて応援席を見れば、先輩が興奮した様子で前に乗り出している。
「国見ちゃん、お題なに出た?!うちにはホラ、メガネものっぽもおチビちゃんも勢ぞろいしてるけど!」
「名前さん、来てください」
「え。わ、わたしなの?」
「あなたじゃなくちゃ、嫌です」
目を丸くした名前さんの手を有無を言わさず取って走る。
徐々に加速させて、前にいたやつを二、三人抜かした。無心で背中を追いかける。
汗ばんだ手を強く握り合りあっているせいで、お互いの汗が混ざり合っている。唯一繋がった右手の感触だけ、やけに強く感じていた。
あと一歩、いや二歩ぶんか。それくらいの僅差だった。目の前でゴールテープが切られる。結果は2着。
やっぱり、と思ってしまう自分が少し情けない。
「おつかれさま」
惜しかったね。笑って小突いてくる名前さんに軽く頭を下げた。
「スミマセン、急に引っ張ってって」
「いいよいいよーわたしも楽しかったし」
でもお題がなんだったのかは気になるなぁ、なんてわざとらしく言ってちらりと視線を寄越す。繋いでいた手を離した。
「女の先輩、ですよ」
「ふーん。ふふっ」
「…なんです」
「べっつにー」
口元が緩みきった笑顔で見つめられて、すこし焦って顔を背けた。
そらした視線の先に、あの人の姿が見えて、俺が声を発するより先に先輩が動いていた。髪が風に揺れて、鼻腔を甘い香りがかすめた。目を閉じた瞬間、ふわりと名前さんの空気に包まれる。目を開ければ、すべては夢の霧に消えた。
「徹やーい。次なに出るの?」
「岩ちゃんと二人三脚ー。名前は俺を応援してくれるよね?」
「岩ちゃん応援する」
「ヒドッ。名前の彼氏は俺なのに」
「あはは、まあがんばりたまえよ」
日差しを受けて、髪も肌も瞳も、笑顔も、すべてが煌めいて見えた。
決して、立ち入ることのできない、その空間。
一瞬目があった及川さんに、軽く会釈をしてから背を向けた。
しばらく歩いて、誰もいない校舎裏の日影に座り込んだ。深く息を吸って、ゆっくりと吐く。右手はまだ汗ばんでいて気持ちが悪い。
「…あーあ。言えるわけないじゃないですか、ね」
お題は"好きな人"です、だなんて。
言えるわけがない。他の男の女に向かって。
本当は、適当な女子を連れて行って、ちょっとジュースでも奢って見逃してもらおうと思っていた。
それなのに、その文字を見た瞬間に思い浮かんでしまったのはあなたの姿で。掻き消そうとしても、無駄に性能の良い耳はあなたの声だけを拾ってしまった。
認めるつもりなんてなかったのに。そんないらないものは萌芽のうちに摘み取って、すべてなかったことにしたはずなのに。
「好きです」
ぽろりと口から零れた言葉が、余計に敗北を実感させた。それでも、コップの水が溢れ出すように、次々と言葉が零れてくる。
「好きです、好きです、愛しています。俺なら、きっと、及川さんより」
誰より、あなたを幸せにします。
最後の言葉は、嗚咽で途切れた。
誰にも、届くことのない本当の心の欠片は、校舎の影に溶けて消える。塩辛い、涙と共に。