夏の日の事でした。とても暑い日でした。わたしの周りには誰も居ませんでした。わたしの足は硬い何かに挟まれていて動く事が出来ませんでした。照り付ける陽射しに体中の水分が奪われていきました。この陽が西に傾く頃には、わたしは干からびていることでしょう。彼はそんな時に現れたのです。
彼を見た時、最初は雨雲がやって来たのだと錯覚しました。彼が纏う黒は、わたしにとって歓迎すべきものに思えたのです。ですが、それは雨雲ではありませんでした。にんげん。踏まれる、摘まれる?それとも視界に入っていないのか。半分枯れかけているわたしはあまり物を考える事が出来ませんでした。
黒いにんげんの、黒い足が持ち上げられました。ああ、踏まれるのか。幾度も経験した事です。痛みを感じない訳ではありません、ただ、慣れてしまっただけ。わたしは自分があの黒い足に潰されるさまをぼんやりと想像しながら、どうせ枯れるのだから、もうどうでもいい、と。そんな事さえ考えていました。
しかし、わたしのうえに降ってきたのは黒い足ではありませんでした。気持ちがいい。雨雲から持たされるものに似た、これは?これは、雨。違う。黒いにんげんがわたしに水を与えてくれていました。水の勢いに体が折れてしまわないように、手で優しく、そっと。世界が鮮やかになったのはその時からです。
枯れかけて傾いた体は水分を得て幾らか潤った様に感じられました。わたしは首を傾げ、たった今命を救ってくれたにんげん――黒い、ひとを見上げました。彼はやさしい顔をしていました。視界が鮮やかに、世界に色が溢れる。そんな気分。今まで味わった事のない気持ちでした。そして、焼かれる様な感情。この感情のなまえ。それは。何故でしょう、誰かに教わった訳でもないのに知っていました。
わたしは恋をしてしまったのです。黒い、このひとに。「では、また」小さくそう告げた彼は踵を返してわたしの元から去って行きました。優しさなのか、気紛れなのか。不思議と前者である様に思えました。体だけではなく心にまで潤いがもたらされたようで。またあのひとに会いたい、生きたい。強く願いました。



「優しい」

不意にあのひとにそっくりな、けれど何処か違う雰囲気を纏わせた声が背後から響きました。

「ノボリは優しい。ぼく、そんなノボリがだいすき。でも」

似た声であっても低く優しいあのひとのものとは対称的な、明るく無邪気な声色でした。ですがわたしは何故か、その声に寒気を覚えました。無邪気、無邪気、無邪気、無邪気…無邪気?
「でも」先程の言葉をもう一度。「でも」無邪気、な、声で、もう一度。近付いてくる足音。わたしを踏まずに水を与えてくれた、わたしに気付いてくれた、あのひとと全く同じ音。その音を聞いた瞬間、わたしは分かってしまったのです。わたしは多分、いいえきっと、これからこの無邪気で残酷な声の持ち主に

「ぼく、ノボリに優しくされるモノはだいきらい」





陽が西に傾く頃、ペットボトルを片手にホームの外れへ。今朝見付けた花の元へ。割れたコンクリートから懸命に茎を伸ばす、儚い、けれど力強い花。綺麗な花だった。綺麗な、花だった。

「ノボリ、どうしたの」

「…いいえ、クダリ。何でもありません」

今日の弟は妙に甘い声を出す。背を向けたまま答えた。花「だった」ものを見詰めながら。



120708
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