まただ。また彼が居る。彼は美術部員でもないのに度々ここへやって来てふらっと絵を描いてゆく。(恐らく彼がここへやってくるのは、本来彼が所属しているテニス部の活動が無い日なのだと思う。本人に聞いたわけではないので定かではない)私が所属している美術部は実質の部員は私ひとりしかおらず、あとの3・4人はほぼ幽霊部員となっている。そこに顧問の先生に許可を取り、息抜きとして彼が時々やって来てはこうして作品制作をしているのだ。彼の描く、モネやルノワールなどの印象派の画家に影響されているようにも思えるその絵は、とても繊細で、温かく、それでいて儚い。普段は私しかいないこの美術室も、彼がいるとなんだか洗練されたような空気を纏う。彼がじっとキャンバスに向かっている姿を見て私もひとりでに背筋がピンと伸び、いつもより良くものが見える。彼は月に2・3回くるかこないかの程度なので、少しずつ、少しずつその彼の見ている世界を形にしていく。私たちがこの空間にいる間、基本的には会話はない。お互いがお互いに自分の作品に向き合い無駄なおしゃべりはしない。はじめからこうだったし、居心地が悪いわけでもない。元々私がひとりの時はしゃべる相手もいないわけだし。


「みょうじさんは俺の事邪魔じゃない?」


そう唐突に聞かれた。彼は私に背を向けて、今もキャンバスに絵の具を乗せながら話しかけているので、表情は読めない。私が“そんなことないよ”と言えば彼はクスリと笑いながら“そっか”と言った。


「先生に許可を貰ったとはいえ、美術部でもない俺が大切な君のアトリエに堂々と居座ってるんだもん。もしかしたら君は優しいから我慢してるんじゃないのかなって思って」
『そんな事ないよ。籍だけ置いて部活に出てこない人よりはずっとマシ。それに、幸村くんのがここにきて絵を描いている姿を見ると、私も不思議と良いものができるの』
「俺もみょうじさんが居るおかげで良い緊張感の中絵が描ける」


幸村くんは後ろを振り返って私を見つめにこりと笑った。彼が振り向く際にちらりと見えた絵はまた少し完成に近付き、新たな表情を見せていた。思えば彼とこんな風に話すのははじめてだ。彼とは普段クラスも違うし、接点はない。そして部活中も必要以上は会話をしない。とても新鮮で、画家としての彼ではない、人間としての幸村精市にはじめて触れた気がする。そう思ったらもっと彼の事を知りたくなった。この素晴らしい絵を描く彼の事を。


『幸村くんは印象派の画家が好きなの?』
「うん。好きだよ。特にルノワールが。」
『前から好きなのかなって思ってた。前に描いてた人物画とか見て』
「驚いた。みょうじさんはいつも彫刻をやっているからてっきりそっちが専門だと思ってたよ」
『ルノワールは有名だから。それに私、元々は油絵をやっていたの。でも、私には油絵に限界を感じたのと、趣味でやってた彫刻の方に魅力を感じてそれ以来彫刻ばっかり』


コンっ木槌でひとつ叩いて彫刻刀を進めると削られた木がヒラリと床に落ちる。また一歩、ただの木材が私の思い浮かぶ完成系へと近付く。幸村くんは私の作業を見ながら“すごいや”と零した。


「彫刻ってさ。大型になると正直男でも大変なのに、女の子であるみょうじさんはもっと大変なんじゃない?」
『大変。でも、こうやって木槌で彫刻刀を叩いて彫り進めている時が一番生きてるって感じがする。油絵はやり直しがきくけど、彫刻はそうはいかない。素材と対話して、自分の頭の中にあるイメージに近付くように彫る。それが完成系になった時、たとえ他人に評価されなくても、この世に私の分身を生み出したような感覚になる』
「…かっこいいね」


その時、部活終了の鐘がなり、私も幸村くんも途中の作品を片付けはじめた。なんだか今日はいつもより時間が短く感じられた気がする。いつもは退屈だったわけではないのに、今日はやけに。片付けを終え、鍵を閉めて職員室へ鍵を返す。今まで特に会話をしなかったこの一連の流れに今日は少し違和感を感じる。沈黙に焦って居るのだろうか。恥ずかしいこと幸村くんに語ってしまったせいかな。下駄箱で靴を履き替える時、私が居るところから裏の下駄箱の位置から幸村くんの声がした。


「今日はありがとう」
『こちらこそありがとう。なんだか恥ずかしいよ』
「なんで?みょうじさんとたくさんお喋りできて俺はとっても楽しかったよ?知らないみょうじさんを知れたしね」
『私も楽しかった。幸村くんとお話できて』


同じタイミングで下駄箱から出てきてお互いに少しびっくりしたけど、少し見つめあって、お互いにくすくす笑った。幸村くんは学校から出るとき、“また、お話ししよう。たくさん話し聞かせてね”ととっても綺麗な笑顔で笑った。


またあの美術室で彼と会うのが楽しみだ。
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