7 茅ヶ崎から連絡先を聞いたよ。 昼休み、ふと取り出したスマホのロック画面に心臓が止まりかけた。見慣れないうさぎのアイコンに、卯木千景という飾り気のない名前。 今夜19時にこの店で待っている。 もう一つのメッセージを目で追って、いよいよ混乱する頭のまま、同時に送られてきていたURLを開く。いつもより雰囲気の良いお店。中華料理だろうか。メニューを見ても、コース料理しかない。今日は少し残業する予定だけれど、19時なら間に合いそうだ。自然と時計に目がいっている自分に、呆れて少し笑ってしまう。 卯木さんは、自分勝手だと思う。わざと酷い言葉を使って一方的に傷つけて、お詫びなのか何なのか、急な食事の誘いで機嫌を取ろうとしているみたい。馬鹿にされているとしか思えないのに、彼からの誘いを断ろうとしていない自分はおかしいのかもしれない。行ったところで、また酷いことを言われるかも知れないし、彼を嫌いになるだけかもしれない。それなのに、突き放せないのはなぜだろう。あの日、わたしからのサブレを受け取った卯木さんが、自分の意思でわたしを傷つけたくせに、まるで自分が傷ついているような表情をしていたのが、どうしても忘れられない。 予想外に可愛らしいLIMEのアイコンを見つめながら、気づけばわたしは短い返事を打っていた。 「来てくれないと思ってた」 わたしも来るつもりはなかったんですけど。でもなぜか、ここにいるんですよねえ。テーブルに置かれたぴかぴかの食器から目線を上げて卯木さんを見つめれば、なんだか申し訳なさそうに、眉を下げて笑っている。 「ありがとう。来てくれて」 わたしの心を容易く読んで、卯木さんは目を伏せる。お返しとばかりに横柄な態度を取りながらも、向かいに座っている卯木さんがいつも通りなことに少し安心している。何か失礼なことを言われたら、水でもぶっかけて帰ってやろうと思っていたから。見るからに高そうなスリーピースのスーツにそんなことをしなくて良さそうだから、という方の安心感かもしれない。 「サブレ、美味しかったよ」 「そうですか。それは良かったです」 もしかしたら、他人からもらった食べ物は口にしないかも。と考えながら購入したので、これは嘘かもしれないなあと適当に返事を返す。 「キミからのものなら食べるよ」 言葉に出していないのに、返事が返ってくる。普通なら、不思議で恐いことのはずなのに、それを心地よく感じている自分に驚く。 バカにされて、身勝手に傷つけられて、この人を大嫌いだと思ったはずなのに、やっぱりなぜか突き放せない。少なくとも、今この瞬間、わたしの目の前にいる卯木さんは、嫌いじゃないと思った。 「俺のために、甘くないものを選んでくれてありがとう」 彼の心の底はとても深くて、多分、その大事な部分を誰にも見せることはしないのだろう。明確に人に見せられる卯木千景という人格はおそらく決まっていて、それでも、ごくたまにわたしに見せてくれる、もう一段階心の奥に垣間見える彼の本音を、わたしは見逃したくないだけかもしれない。 恋とも愛とも違う、この感情の名前はなんなのだろう。 「良いお店に誘っていただくなら、当日以外でのお誘いをお願いします」 「それは本当に悪いと思っているよ」 「でも、この麻婆豆腐は美味しいです」 「はは、気に入ってくれると思った」 つっけんどんな態度のわたしにも、卯木さんは楽しそうに笑みをこぼす。高いお店に行くのなら、さすがに早めに言って欲しい。今日はたまたま綺麗めな服装だったから良かったけど。失礼な後輩の態度に怒ったっていいはずなのに、やっぱり卯木さんはどこが楽しそうだ。少しだけ、たとえそれが仮初だとしても、心が休まる瞬間がこの人にも訪れるといいのに。 「ごめんね、キミと密、仲が良さそうだったから。気になって、傷つけた」 「はい、傷つきました」 「本当にごめん」 どうせ心を読まれてしまうのだからと、はっきりと言葉に出してみた。やっぱり、何度考えてもわからない。この人が、どうして急に自分に声をかけてきたのか。何か理由があるのか、それともただの気まぐれか。もしかしたら、密さんに関わる何かなのかもしれない。それでも、自分を隠さずにいられるこの時間を、やっぱりわたしは嫌いになれない。それに、ふわふわと漂う根無草みたいなこの人から目を離したら、痕跡一つ残さずに、どこかに消えてしまいそうな気がする。なんとなく、そう思う。 もしまた傷つけられる日がきたら、今度こそお水をぶっかけて、大声で文句を言ってやればいい。 「こんな美味しい麻婆豆腐が食べられるんだったら、卯木さんに利用されるのも、そんなに悪くないですね」 「はは、人聞きが悪いな」 デザートの杏仁豆腐をわたしに差し出す卯木さんを見上げれば、初めて見る、優しい顔をしていた。 |