6 「すみません、」 総務部に突然卯木千景が現れた。先輩たちが急にそわそわとし出して、さっと手櫛で前髪を整えたり、慌てて俯き手鏡でメイクを確認したりしている。わたしはと言えば、自席を立ち、コピー機の前で役員会議の資料の印刷物が出てくるのを待っていた。下っ端のわたしは普段出入り口に一番近いデスクで仕事をしているので、こうして質問や相談に来た社員の窓口としての役割になることが多い。だけど来訪者が彼ともなれば話は別で、我先にと数人の先輩が席を立ち、卯木さんの元に駆け寄るように近づいていく。 「ああ、忙しいところすみません。ミーティングで使うスピーカーをお借りしたいんですが」 見当たらなくて、今どこにあるかご存知ですか?困ったように眉を下げて尋ねる卯木さんに、先輩たちが一斉にパソコンに向き合い会議室の予約表を確認している気配がする。 ・・・どうしよう。スピーカーの行方、わたしは知っている。だってそれ、さっきわたしが設置してきたんですもん。 「いま第二会議室で企画部が使ってます。ミーティングが14時までなので、そろそろ終わるかと」 ちらりとわたしを見る卯木さんと一瞬視線が重なった。ひやりとするほど冷たい笑顔をわたしに向けて、何も言葉を発さず、また先輩たちの方へ視線を戻す。 あ、今、きっとわたしを無視した。 そう気づいたわたしは、口を挟んだことを後悔し、卯木さんから視線を逸らす。 「すみません、設置を手伝ってもらってもいいですか?」 「は、はい!」 「14時半からWEB会議なんですが、時間がないのでちょっと不安で」 突然指名されるように声をかけられた先輩が、座っている椅子の上で飛び跳ねるように返事をしている。作り物の照れたような笑顔。みんなはそれに気づかずに、うっとりした表情で見つめている。先輩を指名したのは、多分、わたしへの当てつけだ。この人が機械に弱いわけがない。でも一体、なんのために。 「あ、14時になりましたね。それじゃあ、お願いします」 「は、はい」 いいなあ、という視線を一斉に浴びながら、二年先輩の女性社員が卯木さんの後ろをついていく。 見間違い、じゃなかったと思う。一瞬で感じた彼の恐さに、無意識に危険を感じたのか嫌に心臓が鳴っていた。 「お疲れ様」 少しの残業のあと、さあ帰ろうと社員証を首から外し、手に持ちながら廊下を重い足取りで歩いていれば、突然後ろからかけられたその声に、背筋がひやりとして、ぎこちなくその場に足を止めた。 「・・・お疲れ様です」 「さっきは教えてくれてありがとう。助かったよ」 そんなこと、微塵も思ってないくせに。そんなふうに思うわたしの心の中を、この人はきっと読んでいることだろう。それが、はじめて恐いと思ってしまった。 「この前、密と一緒にいたよね?」 「はい」 ちらりと目線を上げた先で、卯木さんは完璧な笑顔でこちらを見つめている。それでも凍りつきそうなほどの冷ややかな声に、びくりと肩が震えた。質問の内容は、予想外のものだった。卯木さんが密さんの話をするなんて、今まで一度もなかった気がしたけれど。 「キミ、御影密とどんな関係?」 「どんなって・・・」 言い淀むわたしを、深い海のような色の瞳が咎めるように見つめている。 「劇団員とただのファン、ですけど。・・・たまたまビロードウェイにいたら、密さんが一人で寝ていたので、放っておけなくて」 「へえ」 だんだん小さくなっていく自分の声。まるで信じてないとでも言いたそうなその軽い返事に、虚しい気持ちになっていく。多分この人、わたしの答えなんてどうだっていいんだ。質問という形を取っているくせに、わたしに何かの罪をあてがおうとしている。まるで、わたしが悪であって欲しいと言いたいみたいに。 「前にも一緒にいるところを見たけれど。本当に何の関係もないの?」 「ないですよ」 あるわけない。なりたいとも思わない。 それなのに、この人はどうして責めるような口調で、咎めるような視線を向けるのだろう。 「ああ、もしかして、演劇じゃなくて団員目当てだったりして?」 嘲笑するように吐き出された言葉に、恐ろしさよりも怒りがまさった。・・・ムカつく。さっきから好き勝手言って。理由を聞こうともせず、勝手に何かに怒って、無視して。劇団員とどうこうなりたくて通ってる?ばっかじゃないの。あの人たちの演劇を見てその考えが頭に浮かぶのなら、この人はきっと、彼らの演劇に全く心を動かされなかったんだろう。悔しい。そんな風に思われている自分が。 「はは、図星かな」 泣きそうになるのを堪え、卯木さんの胸元にカバンにしまったままのサブレを叩きつけるように押し付ければ、面食らった表情で卯木さんがそれを受け取った。こんなの、浮かれて買わなきゃ良かった。だけどもういい。安い手切れ金代わりだ。 この人がどんな演技をするのか、ちょっと楽しみにしてたわたしがバカみたい。 |