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無事に新年度が始まり仕事がひと段落ついたわたしは、仕事終わりに天鵞絨町にあるお気に入りのカフェに寄り、久しぶりにまったりとした時間を過ごしていた。忙しくてずっと読み途中になっていた小説を読み終えて、二杯目のコーヒーと追加で頼んだパスタを食べ終えればもう閉店間際。慌ててお会計を済ませお店を出た。もうすっかり街は夜に染まり、見上げた空にはまん丸の月がぽっかりと浮かんでいる。

ふと視線を下せば、キャリーケースを引く男性になんとなく視線が止まる。・・・なんだか、似てる気がする。そう思ってよく目を凝らせば、角を曲がっていく後ろ姿は卯木さんで間違いないようだ。自分でも理由がわからないまま、気づけば彼の背中を追いかけて走り出していた。

「卯木さん!」
「・・・ああ、名字さん」

振り返った卯木さんは、一瞬見せた驚いた顔をすぐに隠して、いつも通りに微笑む。いつも通り、のはずなのに、その笑顔にどこか違和感を感じてしまう。これはわたしのただの勘でしかないけれど。
それに、こんな時間にキャリーケースを引いて、卯木さんは一体どこに行くと言うのだろう。

「ああ、これ?親戚の子に貸しに行くところ」
「・・・そう、なんですね」

まだ何も聞いていないのに、当たり前に返ってくる返事。だけどこれは、嘘だろうなあ。わたしでも見抜けてしまうくらいに、見え透いた嘘。やっぱり、卯木さんらしくない。いつもの彼なら、わたしなんて簡単に騙せてしまう完璧な嘘をつけるはずなのに。

沈黙の中、卯木さんはちらりと腕時計を確認する。もしかして急いでるのだろうか。でも、今ここで卯木さんとお別れしたら、もう・・・なんて。ありもしない嫌な予感が頭を掠めた。

「少し、話しませんか?」
「・・・少しだけなら」

困ったように苦笑いをしながらも、卯木さんは近くのベンチに腰掛けてくれる。いつもは色とりどりで賑やかなこの街も、夜が深まればとても静かだ。卯木さんは腰掛けたベンチから、眩しいくらいの満月をじっと見上げている。

「月、きれいですね」
「・・・え、告白?」
「違います!普通に、きれいだなって」

あたふたするわたしを、卯木さんは揶揄うように笑う。・・・良かった。卯木さん、もういつも通りだ。
・・・でも、本当に?

なんとなく、嫌な予感がする。いつもなら彼といる時の沈黙は嫌なものじゃないのに、今日はなんだか居心地が悪く感じてしまう。彼を引き留めたい一心で話題を探し、突拍子もなく口から飛び出してきたのは、つまらないわたしの昔話だった。

「子供のころ、月に行きたいって思ってました」
「・・・へえ。どうして?」
「友達を作るのが苦手で。毎晩月を眺めて、友達になりたいなあって思ってたんです」
「はは、子供らしくて可愛いね」

笑っちゃいますよね、と卯木さんを横目で見れば、卯木さんはそんなわたしを否定せず、優しい目で見つめていた。まるで昔を思い出しているような、何かを懐かしむみたいな表情で。

「多分、居場所が欲しかったんだと思います」
「・・・それなら、俺にもわかるよ」

長い沈黙の後、卯木さんがぽつりと溢した一言。何もかもを手にしているようなこの人も、過去には自分の居場所を探すようなことがあったんだろうか。それとも、過去ではなく、今この時も探し求めているんだろうか。
わたしはやっぱり、この人の本当を、まだ何も知らない。

卯木さんを知りたい。彼の過去全てを教えて欲しいとは思わない。そうじゃなくて、今この瞬間、わたしの隣にいてくれる卯木さんのことを知りたいと思った。

「・・・卯木さん、」
「なんだい?」
「あなたのことが知りたいです」
「・・・・・・」

一歩踏み込んでしまった。答えがノーなら、きっともう今までの関係には戻れない。自分の手をぎゅっと握り、しばらくの間静かに答えを待っていた。長い沈黙を破ったのは、ぽつりぽつりと降り出した雨だった。

卯木さんが立ち上がり、スーツケースに手をかける。どうやら彼からの答えはノーのようだ。・・・ああ、行ってしまう。なんとかして卯木さんを引き留めたくて、ぐちゃぐちゃの気持ちのまま立ち上がれば、月の光を受けた卯木さんが、わたしのことを真正面から見据えて立っていた。


「キミといる時間は、悪くなかったよ」


さようならと言ったみたいだ。何故かその一言が、確かにわたしに終わりを告げたように感じた。その場に突っ立ったまま、卯木さんの放ったその言葉を、何度も何度も頭の中で反芻する。現実に意識を引き戻し慌てて振り返れば、卯木さんはもう、暗い天鵞絨町を歩き出していた。そっちはビロードウェイとは反対方向なのに。やっぱり、この嫌な違和感は当たっていたんだ。

「卯木さん、待って!」

今卯木さんを一人にしたらダメだ。見失わないように、慌てて彼を追いかけて走り出す。それなのに、ちょうどよく道端の居酒屋から、たくさんの賑わう人たちが出てきてしまった。追いかけても追いかけても、そこに見えていたはずの卯木さんの後ろ姿はもう見えない。

立ち竦むわたしの前に、居酒屋の前に置かれていたチョークボードが目に入る。水性インクで書かれた手書きのメニューの文字が、雨で濡れて広がり、流れて消えていく。何一つ痕跡を残さず、最初からそこに何もなかったかのように、消えていく。それはまるで、卯木さんのようだと思った。もしかしたら卯木さんは、はじめからどこにも存在しなかったかのように、このままどこかへ消えてしまうつもりなんじゃないか。

街行く人が不思議そうにわたしを見つめていることも気にせず、傘も差さないまま卯木さんを探木回った。だけど、どんなに必死に探しても、卯月さんの姿はもうこの街では見つけれなかった。

やっぱりあの一言が、彼からのお別れの言葉だったんだ。そう気づいた時、胸が苦しいほどに締め付けられた。彼はお別れに、嘘じゃない本当の気持ちを、最後にくれたのだとわかったから。


その二日後。卯木さんは長期の海外出張に行ったらしいと、茅ヶ崎くんからの連絡が届いた。




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