12 「名字さん」 「はい」 カツカツと廊下に響く自分のパンプスの音が、呼び止められたその声にぴたりと止まる。くっそー、なんだこの忙しい時に。内心そうは思っていても、にっこりと笑顔で武装して声の主の方を向く。・・・あー、またこの人だ。 「忙しい時にすみません」 うん、結構忙しい。 「いいえ。どうされましたか?」 この人、なんて言ったっけ。営業部の、えーと、山なんとかさん。 「その、良かったら今度、食事に行きませんか?」 「え・・・?」 「連絡先、教えてください」 予想外の質問に、貼り付けたはずの笑顔が崩れ、真顔になりそうだった。瞬きを数回、すぐに気持ちを落ち着かせ、またにっこりと笑顔を保つ。・・・さあ、なんて答えよう。どうやったら、穏便にお断りできるだろう。でも、こんなに笑顔なのに、断ったらおかしいかな。頭の中ではいろんな自分の意見が飛び交い、わたしは半分開いた口から、未だ言葉を発せないままでいる。 「ごめん、名字さん。ちょっといい?」 焦ったように駆け寄ってきたのは、卯木さんだった。本当に切羽詰まったような見たことのない表情に、思わずぽかんとしてしまう。じっと重なる視線から、合わせて、という含まれた意味を感じ取る。・・・この人、やっぱり演技が上手い。 「はい、なんでしょう?」 「コピー機の様子がおかしくて、急ぎで見てもらえないかな?」 「わかりました。・・・すみません、失礼します」 まだ何か言いたそうな彼を一瞥して、ぺこりと頭を下げてから背を向けて歩き出す。ちょうど彼の視界から見えなくなるくらいの角を曲がる瞬間、一歩前を歩いていた卯木さんが、わたしの腰に手を回して一瞬で引き寄せた。ぎょっとして顔を上げれば、角を曲がり終わったところで卯木さんがするりと手を離す。 「ごめん、勝手に触れて。ちょっと困ってるみたいに見えたから。一応、ね」 「・・・いえ、助かりました」 異性の腰に手を回せる関係なんて、限られたものしかない。きっと一瞬見えたであろう寄り添うわたしたちに、彼はその意味を感じ取ったと思う。卯木さんが助けにきてくれたことはすぐにわかったけれど、さらに止めまで刺すとは。わかってはいるけど、ぜったい敵には回したくないな、この人。 「営業部の子だったね」 「はい。・・・最近個別の依頼が多くて、信頼してくれてるんだな、って思ってたんですけど」 「ははは」 呆れたように、卯木さんが眉を下げて乾いた声で笑い出す。今思えば、百貨店に手土産を買いに行ったのも、彼からの依頼だったなあ。 「キミってさ、人のことにはよく気づくくせに、自分のことになると結構鈍いよね」 「・・・別に、そんなことないと思うんですけど」 「ふうん」 よく言うよ、と弓形になった卯木さんの目が言っている。 いじわるな顔をして笑う目の前の人を見つめながら考える。卯木さんがそばにいることに、こんなにも安心する日が来るなんて思ってもみなかった。あんなに苦手だと思っていた貼り付けたような笑顔も、まるで心を見透かしているかのような視線も、もう恐いとは思わない。自分でも不思議だけれど、一緒にいると、恐いよりも心地良く、気が楽になっていく。 「卯木さんが来てくれて、正直、ほっとしました」 素直にそう告げれば、卯木さんは面食らったようで、少しだけ驚いた表情を見せた。だけどすぐにいつも通りの完璧な笑顔に戻ってしまう。 「さっきのあれ、あの人に勘違いされて噂になったりしたらすみません」 助けてくれた卯木さんを巻き込んでしまったことに申し訳なさを感じて横顔を見上げれば、卯木さんは完璧じゃなく、いじわるな方の笑顔で楽しげに口角を上げる。 「俺はいいけどね」 「・・・・・・」 「ははは、少しは照れたらどうなの」 わたし、結構本気で申し訳なく思っているのに、また卯木さんに揶揄われてしまった。唇を突き出して、責めるように卯木さんを見上げれば、やっぱり楽しそうに口を大きく開けて笑っている。 きっと、卯木さんはわたしに心配をかけないようにこうして冗談を言って和ませてくれているんだろう。卯木さんって、冷酷で恐ろしいとばかりに思っていたのに、意外と面倒見が良くて、過保護だったりする。不思議だ。見た目は変わらずに、貼り付けたような笑顔のままなのに。卯木さんの心の内が、前よりも少しだけわかる。 「連絡先の交換も、食事も。卯木さんとじゃ全然いやじゃないのに、なんであの人はいやだっただろうなあ」 「・・・キミのそういうところが、人を勘違させるんじゃないのかな」 「へ、何か言いました?」 |