9 「おつー」 「わ、茅ヶ崎くん」 「名前さん、乗ってく?」 駅までの道のりを重い足取りで歩いていたら、覇気のない声に呼びかけられた。顔を上げれば茅ヶ崎くんが、かちゃかちゃと鳴る車のキーを指先で器用に回しながら、にやりと笑って首を傾げている。今日は本当にくたくたで、このとんでもないイケメンの助手席に乗る恐ろしさよりも、あの満員電車に乗らなくて済むことに安堵してしまった。うん、と素直に頷けば、楽しそうに口角を上げて茅ヶ崎くんが笑う。悪魔みたいな笑顔に見えなくもないけれど、なんにせよ、今のわたしにとっては天使だ。 「ありがとー。天鵞絨駅まででいいからね。ほんと助かったよー」 「HP尽きて今にも死にそうな顔してたからね。まあ、おしゃべりでもしながら帰ろうよ」 わたし、そんな顔してたんだ。今日は朝から差し込みの面倒くさい依頼ばかりが重なって、お昼もゆっくり取れなかった。たしかに自分でも、結構げっそりした顔をしていると思う。どーぞー、と助手席のドアを開けてくれる茅ヶ崎くんに、今日ほど感謝したことはない。ジャージにちょんまげヘアの、あの親近感ありまくりの姿を知っているからか、車内にこんなイケメンと二人でいても緊張することもない。それでも、渋滞する道をそつなく運転する茅ヶ崎くんは、今日は救世主でもあるからか、普段より百倍イケメンに見える。 「で、千景さんとは最近どう?」 「どうって?」 「なんか進展あった?」 どう、とはどういう意味だろう。答えがわからず茅ヶ崎くんの横顔を見つめれば、面白いことを見つけた子供のように、いたずらっこの顔をしている。 「LIMEでやり取りとかしてないの?」 「あ!それ!連絡先勝手に教えたでしょ」 「それはごめんって。・・・で?」 全然悪いと思ってないな、こいつ。 「うーん、ランチのお誘いくらいかなあ」 「へえ、ランチは今も続いてるんだ。なに話すの?」 「なんか、薄っぺらい話」 「なんだそれ」 プライベートのこととか、仕事の愚痴とか、彼と一緒にいても話すことはない。そういえば、いつもどんなことを話してるっけ。行ってみたいお店の話や、胡散臭い卯木さんの雑学、出張先の国の文化、とか。あとは少し、劇団のこと。思い出そうとしても思い出せないくらいに、たわいのない話ばかりだ。茅ヶ崎くんが期待しているような面白い話なんて、本当になんにもない。 「まあ、それも意外なのかな」 「どういう意味?」 「先輩が意味のない会話をするために、他人とわざわざ食事をすることが、って意味」 他人、とか、わざわざ、とか。ばっさりいくなあ、茅ヶ崎くんは。だけど、茅ヶ崎くんはわたしと同じように、卯木さんのことを冷静に観察しているんだろうなあと思う。 結局、話はここに戻ってきてしまった。やっぱり卯木さんは、わたしを何かに利用するために近づいてるんだと思う。意味のないことなんて、きっとしない人だ。でも、いくら考えたところでわたしに何の利用価値があるのかわからない。一番わからないのは、美味しいものを食べられるなら、理由もわからず利用されたままでいるのも悪くない、なんて思っている自分がいること。 「さっきの進展の話だけどさ、」 「なになに」 「利用されてあげる代わりに、美味しいごはんをご馳走してもらう。って関係に進展したかも」 「おいおい、余計複雑になってるじゃん」 だってわたしには卯木さんの難しい考えなんて微塵もわからないし。だったら、ありがたく美味しいごはんをいただくだけだ。 「それより、新生春組はどうなの?」 「それがねえ、・・・うーん、千景さんの本音が見えなくて、今少し、悩んでるとこ」 劇団のことを、ただのファン相手に全部を話すことは出来ないのだろう。茅ヶ崎くんは言葉を選びながら、本当に困った顔をして遠慮がちに本音をこぼす。もしかして、卯木さんのことを少しでも知りたくて、わたしに質問を投げかけたのかもしれないなあ。 「わかるかも。わたしもね、今の卯木さんが演技してるみたいですよね、って言ったことあるよ」 「うわあ。そんなはっきり言うか?・・・で、先輩は?」 「大笑いしてた」 あちゃあという顔で茅ヶ崎くんが顔を歪める。茅ヶ崎くんだったら、ぜったいこんなこと言わないだろうなあ。わたしも普段は猫をかぶっているくせに、彼の前ではありのまま思ったことを口にしてしまう。きっと彼なら受け止めてくれるだろうと甘えている自分がいることに気づき、ハッとした。 「前売り出たらすぐ買うからね」 「うん。楽しみにしててよ」 そう言ってにやりと笑う茅ヶ崎くんがなんだかちょっといじわるな顔をしていたので、もしかしたら次は悪役なのかもしれないなあと、次の公演がまた楽しみになった。 |