「そういえば、卯木さんってどうして劇団に入ろうと思ったんですか?」

2枚目のナンを小さくちぎりながら、向かいの卯木さんに問いかける。会社から少しだけ距離のあるカレー屋さんで、わたしたちはランチタイムを過ごしていた。あれからわたしたちの関係はちょっとだけ変わり、ランチのお誘いの時は、卯木さんがLIMEで事前に連絡をくれるようになった。
カレーはライス派の卯木さんがスプーンをお皿に静かに置いて、ふと考えるように視線を宙に向ける。

「茅ヶ崎にチケットをもらって初めて舞台を観に行った時、とても感動して」
「へえ」
「それで、自分もこの舞台に立ってみたいと思うようになったから、かな」

模範回答のようにさらりと答えて、卯木さんはにっこりと笑う。わたしは彼と話す時、彼自身のことには触れないように気をつけている。たとえば、ずっとつけたままの左手中指の指輪について、とか。聞いたところで、おそらく丁寧に作られた嘘が返ってくるだけだからだ。演劇についてだったら触れても平気だろうか、とはじめて踏み込んでみたものの、完璧な笑顔からは全く本音が見えてこない。ここも触れてはダメな部分だったんだなあと、聞いたことを少し後悔した。

「卯木さんが演劇かあ」
「なんだい、その顔は」
「不思議ですよね、今が演技してるみたいなのに」
「・・・・・・」
「すみません、失礼なこと言いました」

返事のない卯木さんに、無意識にぽろりとこぼしてしまった一言を思い出し背筋がひやりとする。失礼極まりないことを言ってしまった気がする。それなのに、不安いっぱいにそろそろと目線を上げた先で、卯木さんは吹き出すように笑っている。

「そんなこと面と向かって言われたの、初めてだよ」
「ですよね。すみません」

当たり前だ。例え思ったとしても、本人を目の前にして普通の人はこんなこと言うわけない。わたしだって、さすがに失言だったと思う。あまりの居た堪れなさにナンを夢中で口に放り込み、しおらしくなるわたしに向かって、卯木さんは「怒ってないよ」と柔らかな声で言う。

「キミは俺のこと、そんな風に思ってたんだね」

感慨深そうにそう言って、卯木さんは最後の一口をスプーンで口元に運ぶ。ああ、また貼り付けたみたいな笑顔。そりゃあ思いますって。嘘つきで、胡散臭くて、それにいじわる。人の心を読める、魔法使いみたいな人。

「胡散臭いの方が傷つくよ」
「そういうところですよ!」

読心術なのかなんなのか、当たり前にわたしの心を読めるような人が、いつも作り物みたいな笑顔を貼り付けている。こんな人、胡散臭い以上に的確な表現があるだろうか。自分が悪く思われていることを知ってもなお、卯木さんはにっこりと綺麗な顔で笑う。

「さあ、そろそろ出ようか」
「あ、はい」

時計を見れば、あと十分で休憩時間が終わる頃だった。慌ててコートを掴み、卯木さんに続いてレジに進む。周りに社内の人がいるかどうかも、前ほど気にならなくなってきた。とはいえ、一緒に会社に戻るのは社内の女性全員を敵に回しそうなので、お店を出たところで解散にしてもらっているのだけれど。

「ごちそうさまでした」
「楽しかったよ。また連絡するね」
「あ、はい」

はい、と卯木さんが両手をグーにしてわたしの前に差し出す。なんだろ、これ。何かのゲーム?手のひらの中に、何か入ってるんだろうか。

「こっちで」
「はい。・・・あ、ハッカだ」
「飴だったんですね」
「うん、店員さんにお会計の時もらったんだ。イチゴとハッカだから、キミのはハズレだね」

残念そうに言いながら、二つともわたしの手のひらに押し付ける。結局イチゴもくれるんじゃん。まあ、この人甘いもの嫌いだからなあ。手のひらにころんと転がったハッカ飴の緑のパッケージ。残念ですね、卯木さん。わたしこれ、大好きなんですよ。

「ハズレじゃないです。わたし、ハッカ好きなので」
「へえ、めずらしいね」
「誰かにとってはハズレでも、誰かにとっては当たりってこともあるんですよ」

飴の包装を破り、口の中に放り込む。食事の後に食べるとスッとするこの感じが、わたしは子供の頃から好きだった。何も返事のない卯木さんを不思議に思い顔を上げれば、面食らったようにその場に突っ立ったまま、わたしを静かに見つめていた。

「そうだね」

一言だけそう言って、卯木さんはまるで大切な記憶を懐かしむように、ゆっくりと目を伏せた。



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