遠い明日のことだから 思えば、迅の後ろ姿しか知らない。 卒業式はあっという間だった。壇上で答辞を述べる、嵐山の穏やかで心地良い声を聞きながら、斜め前方にいる迅の、さらさらとした右頬を眺めた。その視線はどうやら、体育館の開いたドアの先で、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを追いかけているようだった。手を伸ばしても、手のひらの隙間からこぼれていく。手を伸ばせば、伸ばすほど。欲しければ、欲しいほど。上手に、きれいに、すり抜けていく。 迅は、春がよく似合う。 わたしは、迅のことをよく知らない。 「いやー、嵐山の答辞、さすがだったなー」 「うん」 ゆったりとした口調で、迅は言う。 全然見てなかったくせに。そうついて出そうになった言葉は慌てて飲み込んだ。「なにお前、俺のこと見てたの?」なんて、にたりと笑って茶化されるからだ。そうやって、いつだって笑って、大事なことは何も伝えてくれない。 「お前、泣いてただろ」 「は!?」 「最後の合唱んとき。俯いてたもんなー」 「な、泣いてないし!!」 「はははー」 にやにやと笑い続ける迅の肩口を力強くばしんと叩くけれど、迅はそんなのお構いなしのようで、未だ笑い続けている。そのときに気がついた。迅が三年間連れ添ってきた学生服には、もう、鈍く光るボタンはひとつも残っていなかった。ああ、ひとつぐらい、わたしに残しておいてくれても良かったのに。そんなこと、言えるわけもないから、残っていなくて良かったとどこかでほっとしている自分がいる。残っていたら、わたしはそれを欲してしまうから。 迅はどこにいたって人気者なのだ。胸元についていたはずの淡い桃色の花でさえ、どこかの誰かのところへ行ってしまった。迅と過ごした形あるものを手元に置いておけるなんて、どんなに幸せで、優しくて、残酷なことなんだろう。 「そういや、お前。もう引っ越しの準備は終わった?」 「んー、まあ、だいたい」 「だいたいって。呑気だなあ。来週には出るんだろ?」 「うーん。そう思ってるんだけど」 「ははは、適当すぎ。もう、こっちに残ればいいんじゃないか?」 「・・・それより迅は、明日から正式に無職だね」 「それは言うなよ」 セーターの袖の毛玉をいじっていた手がぴたりと止まったのを、慌てて話を逸らしたのを、迅は気づいてしまっただろうか。 そうやって、また期待させるようなことを言う。三門市に残れば、なんて。今のわたしには、切なくなるだけの一言だ。だってわたしは、来週にはもう三門市を出ることが決まっている。新しい土地で、新しい仲間と、新しい生活を送る。迅のいない土地で、迅の面影のない、新しい生活を送る。 「あ、」 「なに?」 「お前と初めて話した時も、こういう感じだったなって、思い出した」 「ああ、わたしがお財布忘れて教室に戻ったら、迅がひとりで残ってて、それで、窓の外を、」 「・・・名前?」 「ああ、うん、・・・なんでもない」 その日も迅は、窓の外を見ていた。開けた窓の隙間から滑り込んで来るぬるい春風に柔らかな髪をなびかせて、迅は少し目を伏せて、遠くを見つめていた。わたしはその日、初めて迅の後ろ姿を見つめた。そして、今日までずっと。わたしは迅の後ろ姿だけを見つめている。出来るなら、隣に並んで、迅が瞳に映す世界を一緒に見てみたかった。同じにおい、同じ音、同じ痛みを感じてみたかった。気づけば迅は、遠くにいた。隣に並んだと思えば、迅はずっと遠くにいて。いつもわたしは迅の後ろ姿ばかりを追いかけている。 一年生、二年生、三年生、一昨日、昨日、今日。 だけど、明日からは。わたしの生活に迅はいない。それがさみしいと思う自分と、どこかで安心しているわたしがいる。 わたし達は今日、卒業したのだ。 「迅さ、」 「ん?」 「あんまり、一人で悩んじゃダメだよ」 「どうした?急に」 いつも、悩みすぎてハゲろ、って言うくせに。そう言って、迅はからからと笑う。 「忙しくても、ごはんはきちんと食べて、眠いときは寝て、遊びたいときは遊んで、」 嬉しい時は笑って、悲しい時は泣いて、さみしい時は誰かの声を聞いて、幸せな時は、誰かを抱きしめて。 「迅、」 わたしの目尻を迅が優しく人差し指で撫でる。その仕草で、自分が泣いていることに気づいた。痛いほどに優しいその触れ方に、また涙が頬を伝うのを感じた。 「なんでお前が泣くの?」 「知らない」 静かに涙だけが流れていく。瞬きするたびにするすると、迅の温かい指を伝って、頬を流れていく。僅かに見える視界の先で、迅は困ったように笑っている。 「はは、 ほんと、変な奴」 「迅には、言われたくない」 「はいはい」 迅の人差し指がゆったりと、わたしの目尻を撫でる。まるで慈しむようなその触れ方に、胸がぎゅっと苦しくなる。 「ちゃんと寝る、ごはんは食べる、無理しない、辛いときにも笑うのはやめる、いい?」 「まるで最後みたいだなあ」 迅の間延びした声が決定付ける、最後という言葉。もう明日からは、迅が目の下に隈を作ってきても、無理して笑っていても、何も口にしていないことにも、気づいてあげられないし、怒ってやることでさえ出来ないのだから。 「最後、」 だよ。 途切れた言葉は、迅の腕の中。ベージュのカーディガンに吸収されてしまった。わたしの背中に回された腕が、ぎゅうと力強くわたしを抱きしめる。 「名前がごちゃごちゃ余計なこと、一人で考えてんの、ずっと気づいてたよ」 余計なことなんかじゃない、って言い返してやりたいのに、力強い腕の中からは少しも抜け出せそうにない。 「この街を出て、新しい生活を送るのも、お前の選んだ道だし。応援しようって決めた」 すう、と迅が息を吸う気配がする。そうだ。わたしが迅に合格通知を見せた時、おめでとう、やったな、って頭をぐちゃぐちゃになるまで撫でてくれた。 「だけど、」 なのにどうして、その声は震えているのだろう。 「だけど、やっぱり、名前に隣にいて欲しい」 背中に感じる力強さと正反対の、か細く弱々しい不安げな声。迅はいつだって自信たっぷりだった。どんなに苦しい時も、難しい立場にいても、余裕たっぷりに笑うことが出来るはずだ。その迅が、こんなにも弱気になるなんて。やっぱりわたしは、迅のことを未だよく知らない。 「俺の、わがままだけど、」 少しだけ弱まった腕の中から、もぞもぞと顔を上げれば、そこには、やっぱり不安げな顔をした迅がいた。 「お、泣き止んだか」 「ばか」 こんな時までおちゃらけて。全く、余裕があるのかないのか。 「ひでえな」 人が一世一代の告白ってやつ、してんのに。迅はやっぱり、眉毛を下げて笑っている。 「迅のボタン、ちょっと期待してた」 悔しいから、遠回しに返事をしてやった。頭の良い迅は、すぐにその意味に気づいてはにかむ。上着のポケットに手を突っ込んでごそごそと漁り、わたしの手のひらに鈍く光るそれは転がった。乱暴に扱われ、たくさんの傷がついたはずのそれは、わたしの手のひらの上で確かにきらきらと光を反射している。 「ちなみにそれ、二番目のやつだから」 迅は後ろ髪をかく。照れた時のくせだ。 「ふうん」 ぶっきらぼうになるのも、わたしが照れている時のくせだ。それを知っている迅はくすくすと笑って、そうして、もう一度。わたしの腕を引いて、温かな腕の中に閉じ込めた。 出会った日と同じ、春の匂いのする風が吹く。 迅からは、あの風と同じ、わたしの大好きなにおいがした。 20160306 |