「今家か?」

通知を伝えた短いメッセージに、そうだよと返事をする。端的で飾り気のない文章は、なんだか諏訪がそのまま話しているみたいで好きだ。諏訪洸太郎、好きな人の名前の通知が表示されるたび、嬉しさで心が跳ねる。わたしには駆け引きなんてできないから、大好きな人からのメッセージにはいつだってすぐに返事をしてしまうのだ。

「5分後に着く」

読んでいた小説に栞を挟むことも忘れて、テーブルの上に乱暴に置く。寝転んでいたソファから跳ねるように飛び起きて、慌てて洗面所に向かった。大急ぎで顔を洗って歯を磨き、跳ねた前髪を撫で付ける。コンタクトを入れる時間はないから、この可愛くない分厚い眼鏡をかけたまま諏訪を迎えるしかない。もう少し早く言ってくれればなあ、と思うのに、予定外に諏訪に会えることになった喜びの方が勝ってしまう。わたしって、単純だ。何一つ準備が出来ていないまま、ピンポンとチャイムが鳴った。覗き穴の先で、諏訪はいつも通り眉間に皺を寄せている。

「はい」
「俺だ」

よく聞く詐欺のようなそのセリフに、くすりと笑ってドアを開ける。そこには、よお、と照れくさそうに上目遣いでわたしを見つめる諏訪がいた。いらっしゃい、と言えば、ぴょこんと跳ねたままのわたしの前髪を指でつついて、今度は諏訪が小さく笑った。

「カーテンも開けないで、また本に夢中になってたんだろ」
「う、うん」
「それに、あんま飯抜くと倒れるぞ」

ほらよ、そう言って諏訪が差し出した手にはビニール袋がぶら下がっている。遠慮がちに受け取って、ずしりと重みのあるその袋の中を覗く。

「煮物だ!」
「ばあちゃんが、名前に持ってけって」
「嬉しい!おばあちゃんの煮物、大好き!」
「喜んでたって伝えとくよ」

袋の中のタッパーを取り出しながら、その中身を確認する。高校の頃、雨の日のバス停でひょんなことから知り合ったおばあちゃんは、偶然にも諏訪の実のおばあちゃんだった。甘く優しい味付けがよく染み込んだ煮物は、わたしの大好物だ。嫌いなにんじんですら、おばあちゃんの味なら食べようと思えるくらいに。家族と離れて暮らすようになってから、誰かの手作りは一際美味しく感じるようになった。それは、作った人の思いやりや愛情が入っているからかもしれない。そうだったら、素敵だなあと思う。

「急に来て悪かったな」
「ううん、届けてくれてありがとう」

ずり落ちた瓶底眼鏡をかけ直せば、諏訪がくつくつと笑っているのに気づく。子供の頃、夜中にベッドの中で懐中電灯で照らしながらこっそり本を読んでいたせいで、わたしの視力はびっくりするぐらいに悪いのだ。前にその経緯を話したことのある諏訪は、きっとそのことを思い出して笑っているんだろう。

「ついでだったからいーんだよ」
「どこか行くの?」
「ああ、防衛任務だ」
「そっか」

諏訪がボーダーに所属してから、もう三年くらいになるだろうか。入った頃は、危険なんじゃないかと烏滸がましくも勝手に心配していたけれど、チームを持って隊長という役割をこなす諏訪は、なんだかとても楽しそうに見えた。学校では見られない諏訪の姿を見れるボーダーのみんなが羨ましい。なんて思ってしまうわたしは、きっとどこまでも欲張りだ。

すっかり話し込んでいたら、がちゃりと隣の部屋のドアが開き隣人が出てきた。肩越しにその男性に視線を向けた諏訪は、隣人が階段を降りるところまで耳を澄ませて警戒してくれている。玄関先で話すには、少し話しすぎてしまったかもしれない。ぴたりと終わってしまった会話を残念に思い、欲張りなわたしは小さく息を吸う。

「・・・お茶でも飲んで行く?」

勇気を出して、そう言ってみた。だって立ち話もなんだし、煮物のお礼もしたいし。そんなふうに、誰にともなく言い訳をして。諏訪は静かに首を振り、もう行くよ、と言う。ドアは開いているのに、まるでそこには見えないもう一枚のドアがあるみたい。諏訪は一定のラインを超えて、わたしに踏み込むことはない。わたしたちの間には、明確な線引きがある。こうしてしっかりとした倫理観を持つ諏訪が好きなのに、いつまでも変わらないこの距離感を切なくも思う。

「おばあちゃんにお礼伝えてね。防衛任務、行ってらっしゃい」
「・・・おー」

何故か諏訪が面食らったような表情をする。不思議に思って首を傾げて見つめれば、諏訪は珍しく、もごもごと口の中で言葉を選んでいるようだった。

「今日バイト?」
「うん。夕方からクローズまで」
「じゃあ防衛任務終わったら、お前のバイト先行くわ」
「え?欲しい本があるなら買っとくけど」

諏訪は明後日の方向に視線を泳がせ、がしがしと頭をかく。わたしのバイト先は駅近くの大型書店で、諏訪の欲しい本ならきっと見つかるはずだ。遅くまで任務をこなした後に、わざわざ買い物するのも疲れるだろう。この煮物を届けてくれたお礼に、そう思っていたけれど、諏訪からの返事がない。

「いや、自分で探すから行く」
「・・・なに、えっちな本?」
「ちげーよ!!」

これでもかと眉を寄せた諏訪が、食い気味につっこみを入れる。結局理由はわからないけれど、そんなこと、なんだって良くなってしまう。だって、今日は諏訪にニ回も会える。きっと今日のわたしは世界で一番幸せに違いない。




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