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「よー」
「あ、諏訪」

諏訪くんから諏訪に呼び方が変わったのは、ここ最近の話だ。教室で本の貸し借りをするのが当たり前になってきた頃、俺の方から諏訪でいい、と名字に言ったのだ。突然距離が近くなった俺たちを、同じクラスの雷蔵とレイジがぎょっとした顔で見つめていたことを思い出す。そのあとボーダーの食堂で散々問い詰められたっけ。
あの雨の日の出来事が、同じ趣味を持つことが、名字のバイト先でこっそり顔を合わせることが、俺らしか知らない特別な秘密のようで。そう名字も思ってくれていたらいいのに。そんなことを思う頃には、多分俺はもう名字に惹かれていたのだろう。

「今日は何買いに来たの?」
「これ」

推理小説は好きだ。だけどそれ以上に、名字が喜んでくれるような面白い本を探すことに必死になっていた。そんなこと恥ずかしくて言えるわけもなく、たまたま読んだ本が面白かったという体で、何食わぬ顔で名字に本を貸すようになった。

「あ!わたしこの本ちょうど読み終わったから、良かったら読む?」
「いいのか?」
「うん!諏訪に読んでほしいと思ってたから」

読み終わったら諏訪に貸そうと思ってたの。と、はにかみながら俺を見つめる名字に、俺の心臓はうるさいほどに鳴っていた。澄ました顔で教室にいる名字とはまるで違う雰囲気。目尻を下げて柔らかく笑い、自分の好きなものを俺なんかに共有しようとしてくれる。こんな名字を知ってしまったら、好きになるのは決まっているようなものだった。

「もう帰る?」
「あー?まあ。なんでだ?」
「今日はあと30分であがりなの。今その本持ってるから、待っててくれたらなあ、って」
「待ってる」

即答だ。不安げに俺を見上げる名字に、俺は迷わず気持ち悪いくらいの速さで即答していた。向かいのファミレスで待ってる、と声をかければ、名字はまた嬉しそうに口角を上げる。もうすっかり、俺はこいつの笑った顔が弱点になっている。



▽▲▽




「お待たせ!」

ドリンクバーだけ注文しスマホをいじって時間を潰していた俺の前に、申し訳なさそうに眉を下げた名字が座った。

「お疲れ」
「待っててくれてありがとう」

名字は慌ただしく上着を脱ぎ、鞄をごそごそとあさり、小説を取り出す。

「はいこれ、返すのはいつでもいいからね」
「おー、サンキュー」

これで予定は終わりだ。別にこのまま帰ったっていいのに、それが何故だか名残り惜しく感じてしまう。なんか頼めよ、とまるで名字のことを思っているかのようにメニューを渡せば、俺のすることを既に何も疑うことのない名字が、ありがとうとそれを受け取る。心配になるくらいに無防備だ。でもそれが、信頼されているように感じて嬉しくも思う。
それに、なんで今日のこいつは空元気なのか、その理由が知りたいとも思っていた。

「なんかあったのか?」
「え・・・?」

メニューをめくる手がぎくりと止まった。ああ、やっぱり図星だった。俺を見て嬉しそうに笑ってくれたのも確かだが、どこか塞いだような表情をしているのが気になっていたのだ。話すことを悩むかのように少しだけ黙った名字は、小さく息を吐いて、ぽつぽつと言葉を溢すように話し出した。

「今日ね、二年くらい一緒に働いていた子が先週辞めちゃったって知ったの」
「・・・そうだったのか」
「お互い本が好きで、仲が良かったんだけど」

名字がどう言葉を選ぼうか、悩んでいるように見えた。俺はできるだけなんにも気にしていないような態度で振る舞って、コーラの入ったグラスを傾けたりしながらその言葉の続きを待った。

「その子、この前告白してくれたんだよね」
「・・・・・・」
「わたしはずっと友達だと思ってたから、断ったんだ。そしたらその子、辞めちゃった」

何と返せば良いのかわからなかった。そのフラれたやつは、俺だと思ったからだ。そいつもきっと、名字と仲良くなって、みんなが知らない一面を知って、もっと好きになったのだろう。そんな俺が、なんと言葉を返せばいいのだろう。

「どうして友達でいたいだけなのに、いつもこうなっちゃうんだろう」

沈んだ声色に、思わず顔を上げる。落ち込んだ気持ちを紛らわすようにぺらぺらとメニューをめくる名字に、俺は罪悪感を感じていた。

「あ、でもね。諏訪たちとはずっと友達でいられる気がするから、気が楽なの」
「・・・そうだな」
「ごめんね、変な話して」

お腹減ったから、なんか食べてもいい?と照れたように笑う名字に、俺は頷く。話したことで少しすっきりとした表情になった名字は、楽しげにメニューを選んでいる。

俺は今、はっきりと線引きをされてしまった。ここで踏み込めば、この無防備な表情も、柔らかく笑う顔も、もうきっと見られなくなってしまう。せっかく築いたこの関係をぶち壊してまで、名字にこの気持ちを伝える勇気は、俺にはない。

「なあ、名字」
「んー?」
「お前のこと、名前で呼んでいい?」

友達だろ、と言えば、名字は照れたように笑って、もちろんと頷く。言ってる側から、友達でなんていられる気がしない。油断し切った緩んだ顔が、はにかむように笑う顔が、可愛くて仕方ない。それでも今は、こいつが安心できる友人として側にいようと決心をした。




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