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湖畔に建てられた真夜中の荒れたチャペルにわたしたちはいた。バブル期が過ぎ、経営が傾き倒産したというブライダル会社の元所有物件は、かつてたくさんの人の門出を祝う、素晴らしい景色があったことだろう。
窓枠に埋め込まれていたはずのステンドグラスは割れ、床に無惨に散らばっていた。土埃をかぶったそれは、月の光をぼんやりと鈍く反射している。そのなかで一人佇むスーツ姿の七海は、まるで新婦を待つ新郎のように見えた。

「七海、お疲れ様。怪我はない?」
「はい」
「・・・大丈夫?ここで少し休む?」

一級案件の任務を初めて一人で終えた七海は、ぼろぼろだった。大きく肩で息をして、呼吸を整えている。問いかけにいつまでも返事のない七海を不思議に思い、その姿を見上げた。七海はぽっかりと穴の開いた天井から、雲一つない夜空に浮かぶ半月を見つめている。山奥の冬の空には、くっきりとその輪郭が浮き出ていた。

「・・・名前、話があります」

揃って月を見上げていたわたしに向かって、七海が静かに声をかけた。その改まった様子に、どきりと心臓が嫌な音を立てる。これからきっと、何か大事な話をするんだろう。覚悟を決めたはずなのに、逃げてしまいたいような気持ちになっていく。

「卒業式の後の教室でのことを、覚えていますか」

あの日閉じた重い蓋を、七海がゆっくりと開ける音がする。

「ずっと、アナタに謝りたかった」

夕焼けに染まる教室を思い出す。小さな口付けをひとつ落として去っていった、わたしの初恋の人。

「あの日、私はアナタにキスをしました。好きだと言えなかった代わりに」

あの日、七海の唇が薄く開いて、そうして何か大切なことを告げた。聞き返すことができずにいたその言葉の意味を、長い時間をかけて、わたしはようやく知ることが出来た。

「好きでした」

名前のことが、ずっと。
いつも灰原とバカをやっていて、そのやかましさがいつの間にか楽しさに変わって、先輩たちに可愛がられている様子も、いつからか面白くなくなって。気づいたらずっと、アナタを目で追っていました。好きになるのに、大それた理由や理屈なんてもの、必要ないでしょう。気づいた頃には、もうすっかりアナタのことが好きでした。

七海のそれは、誰かにとっては甘い愛の告白に聞こえるだろう。だけどわたしには、誰かに許しを請うような、救いを求めるような。まるで懺悔室での罪の告白のように聞こえた。

「私はアナタに呪いをかけました」

アナタが私のものにならないのならば、せめて一生私のことを忘れないように。この先誰かとキスをするたび、抱かれるたびに、一瞬でもいい、私を思い出すようにと。

「引きましたか?」

七海は縋るような目でわたしを見つめ、今にも泣き出してしまいそうな表情で問いかける。自分を責めて欲しいとも、受け止めて欲しいとも、その瞳の色から、相反するどちらの気持ちも垣間見えた。

ああ、そうだったんだね。何年もかけて、ようやく知ることができた。あの日七海が告げた最後の言葉を思い、わたしは静かに目を閉じる。

「あの呪い、解かなくていいよ」

夕焼けと共に消えてしまったあの日の七海が、最後にわたしに精一杯伝えてくれた、大切な気持ちだったのだから。

「わたしも、ずっと好きだったよ」

ねえ灰原。わたしに七海のことを任せてくれるかな。わたしが残りの人生をかけて、必ず七海を幸せにするから。そろそろわたしたちも前を向いて、自分たちの幸せを目指しても許されるはずだよね。

今度はわたしが、七海に呪いをかける番だ。

「七海がわたしを幸せにして」

ボタンを掛け違えたまま何年も。ここまで来るのに、随分と遠回りをしてしまったね。

「わたしが七海を幸せにするから」

七海は泣き出しそうに顔を歪め、その唇を噛む。多分わたしも、おんなじ顔をしている。滲みはじめた視界の先で、唇を引き結んでいた七海が、ようやくふっと、はにかむように小さく笑った。

「プロポーズみたいですね」
「うん、そのつもり」

灰原のように胸を張ってそう言えば、笑ったそばから涙が溢れていく。七海はわたしの腕を強く引き、その大きな体ですっぽりと包んだ。息ができないほどに強く抱きしめられて、酸素を探してもぞもぞと、腕の中から顔を出そうと試みる。ついでに七海の顔が見たかったのに頭の上に顎を置かれてしまったわたしは、その胸に顔を寄せ、七海の鼓動に耳を澄ました。

「喜んでお受けします」

隙をついて腕の中から七海の表情を盗み見る。それに気づいた七海が目尻を下げた柔らかな表情で笑って、それからわたしに小さなキスをした。二度目のキスは、涙でしょっぱい味がした。



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