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帰ってきたら漫画の新刊を貸すと約束をして、手を振って灰原を見送った。いつも通りに任務を終えて、疲れたとぼやく二人を労って、一緒に夕飯を食べる。朝起きた時、取るに足らない一日が始まって終わるだけだと思っていた。いつものありふれた日常が、欠けることなく当たり前に続くものだと、疑いもしなかった。
これだけ危険な世界にいて、前日一緒に任務に就いた人が、その翌日に亡くなることだって経験して。誰しもその日が等しく訪れることを、わかっていたはずなのに。
わたしは本当は、何にもわかっていなかったんだ。それでもわたしたちだけは特別で、いつまでも三人一緒にいられるのだと、そう信じていたんだ。


灰原は、変わり果てた姿で帰ってきた。







ドアノブを握る手が震えている。この扉を開けたくない。現実を受け入れるための心の準備なんて、そんなの、わたしには出来ない。
灰原のことを告げる電話越しの硝子先輩の声色は、事実だけを淡々と述べる、それは静かなものだった。まるで、何もかもを諦めたような、全てをわかってしまったような、そんな響きを持っていた。悪い冗談ですよね、なんて、とてもじゃないけれど聞けるような様子ではなく。だからこそ現実味を持って、その言葉はわたしに伝わった。

このドアの先に。

震える手のまま、ドアノブをゆっくりと回した。どんよりと仄暗く、息がつまりそうな程しんと静かな安置室の中には、憔悴しきった様子の七海が目元を覆い、力無く壁にもたれかかっていた。その様子が、さらに現実味を増して灰原の死を伝えている。差し迫った現実に、くらくらと眩暈がした。

「名前、」

呼ばれた声にゆっくりと目線をあげれば、やりきれないような悲痛な面持ちで、夏油先輩がわたしを見つめている。その目から、もう冗談ではないのだと、痛いほどに伝わってきた。

「顔を見るか?」

夏油先輩は目顔で問う。覚悟は出来ているかと、そう聞いている。そんなもの、いつまでだってしたくない。だけどこの現実を、もう受け入れなくてはならないのだろう。この気持ちはきっと、諦めに等しい。
わたしは小さく頷いた。

「お願いします」

夏油先輩はゆっくりと、顔にかかった打ち覆いを外していく。息がつまるほどに心臓が激しく脈打つ。緊張で指先までしんと冷え、緩く握った手のひらが、かたかたと小刻みに震えている。それでもどうか、嘘であって欲しいと願いながら見つめた先には、今朝見送った灰原の、変わり果てた姿があった。

「灰原、」

頬に触れると、驚くほどに冷たかった。朝見送った時にはなかった頬の大きな傷は、きっと硝子先輩がエンバーミングを施し、最大限修復してくれたのだろう。その傷を指でゆっくりとなぞる。「なあんてね、びっくりした!?」と、人好きのするいつもの笑顔で起き上がってくるんじゃないか、なんて。もう叶いもしない願いを頭に浮かべて目を閉じる。
紛れもない現実がただ静かに、わたしたちの前に突き付けられていた。

「・・・おかえり、灰原」

いつもみたいに明るい声の「ただいま」はない。生きては言えなかったその言葉をかけてしまったら、吐く息が震えていく。

ここで泣いたらダメだ。きっと七海は耳で、気配で、それを感じ取ってしまうだろう。わたしが泣いてしまったら、七海は自分を、きっともっと責めてしまう。

肩を並べて楽しそうに話す、前を歩く二人のいつもの後ろ姿を思い出す。七海の気持ちを想像すれば、わたしがかけられる言葉なんて何ひとつない。

歯を食いしばり、できるだけ大きく呼吸をして、震えを抑えようと試みる。溢れ落ちそうな涙で、灰原の顔が滲んで見えない。
灰原はもう笑いかけてくれないのだと、昨日までの当たり前はもうどこにもないのだと、わかってしまった。

安置室の扉をゆっくりと閉める。
堪えていた涙が床に吸い込まれるように静かに落ちていった。





部屋に戻る気になれず、あてもなく高専の中を歩いた。並んで授業を受けた教室に、灰原に何度も吹っ飛ばされた校庭に、大盛りの白米をおかわりしていた食堂に。どこに行っても灰原の面影を探してしまう。そこの角からひょっこりと、「驚かせてごめんね!」なんて。首筋に手を当てながら、照れたように笑って出てきてくれるんじゃないかって。

へとへとになるまで高専の中を歩いて、気づけば明かりのないその部屋の前にたどり着いた。ノックをしたら、もしかして。ドアに向かって手を伸ばしたところで、こつんと小さく足音が鳴った。
・・・もしかしたら、本当に。

「名前、」
「・・・五条先輩」

驚いて立ち止まるその表情を見て、ぽろりと涙が溢れた。堰を切ったように溢れ出す涙で、息もままならないほどにしゃくり上げる。どうしていつもはむかつくだけの先輩の姿を見て、こんなにもほっとするんだろう。五条先輩はなんにも言わず、ただ黙ってわたしを抱き締め、胸を貸してくれている。

わたしはその腕の中で、一生分というくらい声を上げて泣いた。傷だらけの灰原を見た後なのに、思い出すのは笑っている灰原の顔ばかりだ。わたしに大きく手を振って、大盛りのごはんを美味しそうに頬張って、先輩たちの喧嘩を見てお腹を抱えて笑う。思い出すのは取り留めのない日常ばかりで。
灰原、灰原、灰原。
幽霊でも、呪いでも、なんだっていい。
灰原に会いたい。







わたしはしばらくの間、学校を休んだ。それを誰も咎めなかったし、戻ってきた時も何も言わなかった。

昨日、灰原の荷物が自室から運び出されていった。それはご家族の元に返されて、あるべきところに帰って行ったのだろう。
換気のためか、開いたままのドアから部屋の中が見える。がらんどうなその部屋はあまりにも無機質で、まるでそこには最初から誰もいなかったかのように思えた。

ぼんやりと佇んでいたわたしは、近づいてくる足音に気づき顔を上げる。久しぶりに見た七海は窶れた様子で、静かにわたしの隣に立った。何を話せばいいかわからず、主のいないその部屋の中に視線を戻す。

『泣くなら私の前にしてください』

見上げれば、まるで色のない目をした七海が、赤くなったわたしの目尻を撫でるように指でなぞった。その言葉はまるで、もう二度と立ち上がれないくらいに自分を責めて欲しいと、決して自分を許さないでほしいと、そう言っているように聞こえた。
七海のせいじゃないと、自分を責めないで欲しいと、何かを伝えたいのに、わたしは七海に正しく言葉をかけられる自信がなかった。せめて何かを伝えたくて、必死で答えを探し七海の瞳を見つめれば、七海はわたしの視線から逃れるように目を伏せて、まるでわたしなんていないみたいに、背を向けて去っていく。







高専に復帰したわたしは、以前から話のあった補助監督への転属を希望することにした。必然的に七海とはばらばらの授業が増えて、わたしたちはそれぞれの任務に就くようになった。七海が授業中以外でその席につくことはなく、それに伴って必要最低限の会話だけをするようになった。そうして、卒業までの残りの学生生活は、あの頃がまるで夢だったみたいに、歪な関係のまま過ぎていった。




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