35 「うっ・・・」 頭が割れそうだ。 とんでもない二日酔いに頭を抑え、ベッドの中で顔をしかめる。 ・・・ていうか、あれ。わたし、どうやって帰ってきたんだっけ。確か昨日は京都の補助監督たちと飲みに行って、それから・・・。 帰ってきた記憶がないのに、自分の家のベッドにきちんと寝ている。メイクは残念ながら落としていないし、居酒屋の臭いのついた洋服も昨日のままだけれど。それでも、きちんと帰ってきている。 何も覚えていないのに、七海が結婚するという現実だけは、いやにはっきりと覚えている。 ≫ 「ひっどい顔だね」 「ほっといてください」 「七海のこと聞いて飲みすぎた?」 「・・・・・・」 「はい図星ー」 あまりにも憎たらしい顔で五条先輩は笑っている。全くその通りすぎて、言い返す言葉も見つからない。 今日は朝から先輩と、明後日からの泊まりの任務の打ち合わせがあった。二日酔いがあまりに酷くしぬほど休みたかったけれど、身体に鞭を打って出勤した。この状態で会うよりも、休んで予定に穴をあけた時の方が、ねちねち小言を言われそうだと思ったからだ。 「そんなことより、打ち合わせはじめましょう」 向かいの先輩に資料を渡し、昨日取りまとめた資料を乱暴にめくる。せっかく仕事モードに切り替えることができたわたしを、五条先輩はいとも簡単にあの話題へと引き戻す。 「なんでお前がそんな顔するのかわからないね」 「・・・あの、打ち合わせを、」 「自分で終わりにしたくせにさ。今更、被害者ぶるなよ」 実らなかった初恋を、長い時間をかけてようやく過去のことにできたと思っていた。七海と友達として一から関係を築けたら、あの初恋の呪いもようやく解けるだろうと。 自分でなかったことにしたくせに、今更になって、七海の幸せを心から祝えないなんて。 核心を突かれ、悔しくなって言い返す。これでは全てが図星だと、先輩に伝えているのも同義なのに。 「なんでそんなこと、五条先輩に言われなきゃいけないんですか。七海だって、その方が、」 「お前はさ、七海のためって言ってるけど、結局自分が傷つくのが怖いんだよ」 もう何もかも、この人の言う通りだった。昔から今日までのこの拗れた関係に、いい加減腹を据えかねたであろう五条先輩が、ここぞとばかりにわたしに正論を突きつける。 ようやく七海と信頼関係を築いて、やっと友達というポジションに収まることができたのに。全てを壊してまでこの気持ちを伝える勇気なんて、わたしにはない。 ・・・言われなくてもとっくにわかっている。わたしはただ、自分が傷つくのが怖いだけだ。 あんなに願っていた七海の幸せを目の前にして、素直に祝うことの出来ない自分は、なんと愚かで情け無いことだろう。 吸い込まれるように落ちていく涙の粒が、床に二つの染みを作る。それからはもう数えることが出来ないくらい、とめどなく涙が溢れた。五条先輩の前で泣くのが悔しくて、わたしは俯いて唇を噛む。今更好きだと気づいても、もう遅い。願ったとおり、七海はきちんと自分の幸せを見つけたんだ。だからこそ、わたしは七海の幸せをきちんと祝福し、この気持ちに区切りをつけなくてはいけない。 わたしの顎に指をかけ、五条先輩は無理やりわたしと目線を合わす。涙と鼻水で濡れみっともない顔をしているわたしを、先輩は冷めた目で見下ろしていた。わたしが泣くのはお門違いだと、そう言っている気がした。 「何の話をしているんですか?」 かつかつと乱暴に鳴る靴音に目線を向ければ、ひどく驚いた表情の七海と目が合った。わたしは慌てて目を逸らし、どうか早くここから立ち去って欲しいと祈るように思う。ただ事ではないと悟った七海の纏う空気に、怒りの色が帯び始めた。 「ああ、明後日の泊まりの任務の打ち合わせだよ。一緒の部屋でいいかって話」 「ふざけないで下さい。どうして名前が泣いているんです」 「知らなぁい」 怒りで肩を震わせる七海を嘲るように、五条先輩はわざと神経を逆撫でするようにそう言った。 「その任務、私が行きます」 七海の声が震えている。見なくてもわかる。きっと、めちゃくちゃに怒っている。五条先輩はそれをわかっているはずなのに、変わらず七海を煽るような態度を取っている。 「でもこれ、一級案件だよ?」 「行きます」 「・・・私情?」 「私情です」 「あはは。・・・まあいいや。じゃあ諸々の手続きは、お前らが済ましといて」 泣きじゃくるわたしと怒りで震える七海を置き去りにして、五条先輩は飄々と部屋を出ていった。ひらひらと振った手が見えなくなったところで、張り詰めていた空気にどっと疲れが出て、大きく息を吐く。あまりにも突然のこの流れに、いつの間にやら涙も引っ込んでしまっていた。 目の前には、静かに怒りを放つ七海が残された。 「泣くなら私の前にしてください」 アナタは昔から、五条さんの前でばかり泣く。 七海が靴音を響かせながらわたしの正面に立ち、目尻に残った涙の粒を指で掬う。 好きだったなあ。この優しさが、自分だけに向けられたような気がした時もあったけど。 なんてことない、七海はわかりづらくとも、誰にでも優しい。その優しさを教えてくれたのは、七海の恋人と、それからもし、わたしたち高専の仲間だったのなら。もうそれだけで十分だ。 今度こそ、ちゃんと友達から始めよう。笑顔で祝福できたなら、きっとこの恋も、意味のあるものだったと思えるはずだ。 「七海、言うのが遅くなっちゃってごめん」 泣き腫らした目も、ずるずると垂れてくる鼻水も、どこまでも不恰好だ。だけどもう、これでいいんだ。 「結婚おめでとう」 そう言えば、七海は大きく目を見開いた。あんぐりと口を開け、ぱちぱちと瞬きをする。 「は?」 「え?」 ・・・あれ、待ってこれ、どういうリアクション?それに、七海の眉間。どんどん皺が深くなっていく。 「なんの話ですかそれ」 「・・・は」 「名前が泣いていたことと、関係ありますか?」 「い、いや、」 すかさず嘘を見抜き、七海はわたしに鋭い視線を向けた。七海の瞳には、再び強い怒りの色が浮かんでいる。 「私が結婚・・・?」 「うん」 「それ、情報はどこから」 「伊地知くんから聞いたよ。写真も見せてもらったし」 「伊地知君は誰から聞いたか知っていますか?」 「確か、五条先輩」 七海は目元を手のひらで覆い、おそらく今までで最大の深いため息をひとつついた。わたしを問い詰めるような表情が緩み、いつもの七海に戻ったように思えた。 「話は大方わかりました」 「あ、うん」 「わかってない顔してますね?私は結婚なんてしませんよ」 それに、恋人だっていませんし。そう付け足す七海に、わたしはこんな時にもかかわらず、そのたった一言に胸を撫で下ろしている。 「・・・え!じゃあ、あの写真は!?」 「写真・・・?」 「うん。すらっとして綺麗な女性だったよ。七海の隣で、あ、水色のコートを着て、」 「・・・それ、多分依頼主です」 へなへなと、座りこみそうなくらいに体から力が抜けていく。・・・な、なんだそれ。七海、結婚しないのか。ようやく心から安心したら、二日酔いにあの大泣きを重ね、再び頭ががんがんと痛み出す。 「ちょっとあの人のところに行ってきます」 「え」 うわ、七海のこの顔。怒髪天を衝く、ってやつじゃないのか。五条先輩、いよいよやられてしまうかもしれない。・・・合掌。 「それより。あんなに泣いていた理由、後でちゃんと聞かせてもらいますからね」 「へ・・・」 悪戯に笑った七海が、わたしの頬に伝った涙の後をゆっくりと撫で、部屋を出ていく。今更なんと取り繕うと、七海はきっとわたしの気持ちを見抜いていることだろう。それならば、もういっそ。五条先輩にここまで追い詰められてようやく、わたしは七海にこの気持ちを告げる覚悟を決めた。 |