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「あれ、ななみら」
「起きましたか。ほら、家に帰りますよ」
「・・・おんぶ」
「は」
「お・ん・ぶ」
「たちが悪いな」

そう言って舌打ちをしながらも、七海は屈んでわたしに背中を差し出した。夢の中の七海も、やっぱり変わらずに優しい。七海におんぶされるなんて、学生の時ぶりだなあ。あの時よりうんと大きくなった背中に腕を回せば、七海はひょいと軽々立ち上がる。

「七海」
「はい」
「七海」
「なんですか」
「七海」
「しつこいですね」

最後は半ギレで返事をする七海が、肩越しに振り返る。なんだか面白くなってしまい、ふふ、と小さく笑えば、七海はあからさまに大きなため息をついた。夢の中の七海は、夢じゃないみたいにまるでいつも通りだ。これはわたしが作り出した七海なのだから、わたしが見つめていた時間の分、正確に再現出来ているのかもしれない。それはなんだか、皮肉な話だなあ。

「なんでこんなに飲んだんですか」
「つまらなかったから」
「じゃあ余計に飲むんじゃない」

こうして小言を言う七海のお怒り度は、そんなに高くはないはずだ。この人が本気で怒っている時は、ものすごい圧を放ちながら黙りこくってしまうから。そっちの方が100倍こわい。

「起きたらあの男とホテルにいたりして」
「は?」
「だってこれ、夢でしょう?」
「勘弁して下さい、この酔っ払いが」

お願いだから、と言い加えた七海の声色はやけに真剣だった。

「私の目の届くところにいてください」
「うん、わかった」
「全然わかってない返事ですね」

もう今後、私のいる時だけにして下さいよ。こんなに酔うまで飲むのは。 
七海は肩越しに振り返り、わたしを諭すように言い聞かせる。優しいなあ、わたしが作った七海は。それはきっと、わたしの記憶の中の七海が、こうして不器用で一見わかりづらい優しさをたくさんくれたからなんだろう。

「夢というならば聞きますが、」
「はい、どうぞ」
「名前は、どうしてこの世界に残ったんですか?」
「突然だね」
「いいから」

あまりに突拍子もない質問に、驚いて瞬きを繰り返す。わたしの夢の中の七海は、面接みたいなことを聞くらしい。

「わたしが高専に残ると決めたとき、学長にされた質問みたい」
「学長に?」
「うん。お前は辞めなくていいのかって聞かれたんだよ」

そうだった。七海が卒業と同時に呪術界から離れると知った後だったと思う。学長の部屋に呼びだされ、そう問われたことがある。それはお前も逃げたかったら辞めていいんだと、無理に続ける必要はないと、暗に言われているような気がして。それでもわたしは、この世界で生きることを選んだ。

「たしかに、どうしてだろう」
「私に聞かれても」
「・・・結局、逃げられなかっただけかもしれないね」

明日死ぬ覚悟なんて、わかっていても出来ないし。代わりのいる補助監督は、術師より簡単にこの世界を離れられるだろうけれど。
知ってしまったら、知る前には戻れない。七海と灰原の分まで背負っていこうとか、そんな立派なものじゃなかったけれど。

「灰原が言ってたよね、自分にできることを精一杯頑張るのは気持ちがいいって」
「・・・はい」
「わたしはただ、もうこれ以上忘れたくなかっただけかもしれないなあ」

たとえ色褪せしまっても、あの屈託のない笑顔の面影を、ここで探したかっただけかもしれない。もしわたしがここを離れてしまえば、灰原と七海と過ごした愛おしい日々が、全てなかったことになってしまうような気がして。
あの時のわたしは、学長になんと答えたんだっけ。きっと納得してもらえたから、こうして補助監督として就職できることになったのだろうけど。

心地良く、七海が歩くたびにその大きな背中が揺れている。今ならわたしも、聞いても許されるだろうか。・・・あ、そっか。大丈夫に決まってる。だってこれは、わたしの夢の中だ。

「七海は、どうして高専に戻ってきたの」
「・・・さあ」
「なにそれ」

わたしからの唐突な質問に、今度は七海が面食らったように見えた。はぐらかすように返ってきたその言葉に、思わず吹き出してしまう。七海は少し考えるような素振りをして、冬の空にくっきりと姿を現す星々を見上げている。みんな、そんなものなのかもしれない。大層な理由も、強い正義感も、全てがあるからこの世界にいるわけでもないのだろう。

「七海が高専から離れると知った時は、正直、ほっとしたんだぁ」

もう、あんな理不尽で辛いことが、七海の人生で起こることはないんだって。これからは目いっぱい、幸せになろうとしてくれたらいいなって。

「どうして戻ってきちゃったの」

思いがけず、責めるような口調になってしまった。言い返してもいいはずなのに、七海は何にも言わず、黙ってわたしの話に耳を傾けてくれている。
一生会えないとわかっても、それでも良かった。あの時の七海は、きっとここにいることや、わたしたちといることの方が辛そうに見えたから。どこでもいい、七海が自分の幸せを見つけてくれれば。そう確かに、あれから何年も祈っていたはずなのに。

「なのにどうして、こんなに嬉しいと思ってしまうんだろう」

ぎゅっと首に回した腕を、七海が振り払うことはない。その首筋に顔を埋めて、わたしは今にも溢れ出しそうな涙を堪えた。息を整えようと大きく息を吸えば、七海の匂いがする。やっぱり、やけにリアルな夢だ。七海はわたしを背負い直し、エレベーターのボタンを押す。ああ、もうすぐ家に着いてしまう。そうしたらこの夢も、きっと。
どうかこの夢が醒めないでと、縋るようにもう一度、七海の首元に回した腕に力を込めた。



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