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大きく春風が吹いて、桜の花びらが舞い上がる。きらきらの絹のような髪も、澄んだ碧色の瞳も、透けるような白い肌も。その何もかもが、どこか人間離れしたように思える。
去年の春、初めて七海と会ったあの時。彼は同じように桜吹雪のなかにぼんやりと佇んでいた。
思えばあの時から、わたしは。

「見惚れてるね」
「えっ!?」
「桜、綺麗だよね」
「あ、う、うん」

知ってか知らずか、灰原はにんまりと笑ってわたしの顔を覗き込む。慌てて七海から視線を逸らし、本来の目的であった満開の桜の木に目を向ける。・・・さっきの灰原。あれはきっと、察してる顔、なんだろうなあ。灰原は大雑把なようで、人の気持ちに敏いところがあるから。

新たに一年生を後輩を迎え、わたしたちは二年生になった。だからといって何も変わらず、座学の授業と体術と、任務をこなしていく毎日が続いている。この一年も変わらない毎日を、こうして三人で過ごしていくのだろう。
見上げた桜の木から、止めどなく花びらが降ってくる。この一年は、思い返せばあっという間だった。危険なことも悲しいこともそれなりにあったけれど、それ以上に、ここでの生活が思いの外楽しくて。みんなと共に過ごしたこの一年に思いを馳せていれば、ふと強い視線を感じた。その視線の元を辿るように、わたしはその方向へ目線を向ける。

「わ、」

その先で、七海がわたしを見つめていた。すっかり油断していたわたしは、驚いて思わず声を上げてしまった。そんなわたしに気づいて、灰原はやっぱり楽しそうに笑う。そうして七海に向かって「なーなみー!」と気の抜けた声で呼びかけ、大きく手招きをした。
灰原に呼ばれた七海は、ゆっくりとこちらに向かって歩き出す。なんだか気まずくなって、明後日の方向の桜を見上げながら、わたしは七海が隣に並ぶまでの時間を静かに待った。

「見過ぎです」

なんですかアナタ、さっきから。その言葉にびくりと肩を跳ね上げ慌てて七海を見上げれば、風に乱された前髪をかき上げて、不機嫌そうに唇を尖らせている。
な、なんと答えれば。困って灰原に助けを求めようとすれば、彼は舞い落ちる花びらを空中でキャッチするのに夢中で、それどころではなさそうだ。どうやら助けてくれる気はないらしい。

「ち、違うよ。桜を見てたんだよ」
「どうだか。私のことよく見てるじゃないですか」
「なっ」

空中でようやく花びらをキャッチした灰原が、その手のひらを握ったまま大きくガッツポーズをする。そうして、「あはは、全部バレてるね!」と屈託のない顔で笑った。・・・や、やっぱり。灰原にもバレている。
ぎこちなく固まってしまったわたしを哀れに思った灰原が、「任せといて」と目顔で言い、突拍子もない話題を七海に振って、話を逸らそうと試みている。

「それより七海!今日の帰り、何食べて帰る!?」
「なんですか急に。・・・あ、そう言えばこの辺に、前から行きたかったパン屋が」
「僕はさっき見た中華屋がいいな!」

自分で聞いたくせに食い気味にそう答えた灰原が、四の五の言えなくなるようなくらい真っ直ぐな笑顔を七海に向ける。七海は眉間に皺を寄せ、ううんと唸ってから、わかりました、と灰原の提案を受け入れた。灰原、七海が押しに弱いことをよくわかっている。それに、こうなったらもう自分が折れるしかないことを、七海もまたわかっているみたいだ。

二人は並んで、わたしの前を歩いている。去年の夏、みんなでジェラートを買いに来たこの総合公園は、お花見をする多くの人で賑わっている。ここの桜が綺麗だと硝子先輩に教えてもらい、わたしたちは任務の帰りに寄ってみたのだった。全くその通りで、どこを見上げても満開の桜が、柔らかく吹く春風にその花びらを美しく散らしている。

「次は先輩たちを連れて来ようよ」
「ええ・・・」
「きっとみんなで来たら楽しいよ」
「・・・めんどくさいの間違いでは」

二人はいつもあべこべで、なのに不思議と仲良しだ。それは、灰原の裏表のない真っ直ぐな性格のおかげなのか、七海の意外と面倒見の良い性格のおかげなのか。正反対の二人はなぜか綺麗にぴたりと収まる。馬が合うとは、きっとこういうことなのだろう。

前を歩く七海が、黙ったままのわたしがきちんとついてきているかを確認するように振り返る。その時、七海のさらさらとした前髪に、桜の花びらが一枚付いていることに気づいた。

「七海、前髪に花びらついてるよ」

どこですか?そう返ってくると思いきや、七海はわたしの身長に合わせ、高い背を屈ませた。驚いてその瞳を見つめれば、七海もまたわたしの瞳を見つめ、何かを待っているかのように、じっと動かないままでいる。
・・・こ、これは。取れ、ということでしょうか。

「・・・目、閉じてて」

ずっと触れてみたかったその美しい髪に、指先が微かに触れた。七海の伏せた目元には、長いまつ毛が影を落としている。色素の薄いさらさらとした頬に、この桜の花びらの淡い色が良く似合って見えた。

まじまじと七海の容貌を見つめていたわたしは、さっきよりもうんと油断していた。七海の瞳がばちりと開いて、至近距離で真っ直ぐに見つめ合う。伸ばしたままの手を慌てて引っ込めれば、七海はしたり顔で片方の口角だけを上げ、にやりと笑った。わたしの顔は引き攣って、きっと真っ赤に染まっていることだろう。

「ほら、また見ていた」

そう言い残し、七海は前を行く灰原を追いかける。
ばくばくとうるさく鳴り続ける心臓を落ち着かせようと、わたしはその場で大きく深呼吸をした。いつまでも落ち着かない胸を抑え、その場から動けないままでいるわたしを七海は振り返る。わたしが思ったとおりの表情をしていたのか、七海は可笑しそうに目尻を下げて笑って、それから小さく手招きをした。

『帰りますよ』
「う、うん」

駆け足でその隣に並び、足元に積もっていく花びらを見つめる。あと何度、こうして一緒に桜を見れるだろう。願わくばずっと、三人一緒に春を迎えられたなら。
じゃれ合いながら前を歩く二人の背中を見つめながら、そんなことを思った。



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