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生クリームを火にかけて、ふつふつとするまで加熱する。火を止めて、チョコレートに沸騰した生クリームを注ごうとしたところで、後ろからひょいと誰かがひとかけらを摘み上げた。慌てて鍋を傾ける手を止める。危なかった。・・・こんなことするのは一人しかいない。

「甘いなあ」

その声に右上を見上げれば、すぐ後ろに立った五条先輩がわたしを後ろから抱きしめるように流し台に左手を付いて、右手の指についたチョコレートをぺろりと舐めた。きっとこの甘い匂いに釣られてやってきたのだろう。

「先輩が甘くしろって言ったんじゃないですか」
「失敗すんなよー。中のチョコ、とろっとしてなかったら許さないからな」
「めんどくさ・・・」
「あ?」

フォンダンショコラ、お菓子作り初心者のわたしにはどんだけ作るの面倒くさいか、わかってます?簡単に作ってくれなんて言ってたけど。
バレンタインにフォンダンショコラが無限に食べたいと、煙草をふかす硝子先輩とその隣でお菓子をつまむわたしの前で五条先輩は大袈裟にアピールをした。もちろん硝子先輩は完全な無視を決め込んだため、消去法でわたしに白刃の矢が立ってしまった。お願いというより、もうあれは脅しだった。

お金持ちだし、バレンタインの催事でも行って高いチョコをたくさん買えば良いのに。どうしてわたしの手作りなんて。くそ、面倒くさい。例え本命にだってこんな面倒くさいことしないだろうに。それをなんで普段からムカつくこの先輩に。

「おい、呪いを込めんな」
「あ。すみません。無意識に」

ものすごい力でホイッパーで混ぜていたらしい。もうすっかりチョコレートと生クリームは綺麗に混ざっている。ついでにわたしからの呪いも混ざってしまっているけれど。

「あの、型取りたいんでどいてもらえます?」
「お前はさっきから失礼なんだよ」
「あだっ」

両手が塞がっているのもあって、落ちてきたげんこつをまともに頭頂部で受け止めてしまった。「失敗したら許さないからな」そう言って去っていく先輩の背中を涙目で見送る。くそう、先輩のわがままでこんな目にあっているってのに。ホワイトデー、百倍で返してもらわないと釣り合わないからな。

型に生地を流し込んでいたところで、真後ろにまた人の気配がした。・・・あの人、よほど暇なんだな。邪魔するのもいい加減にしてほしい。なんなら手伝って欲しい。ていうかもう自分で作って欲しい。
ああ、いよいよムカついてきた。目尻を吊り上げて後ろを振り返る。

「まだ何かあるんですか!?」
「・・・」
「な、七海」

驚いた。振り返ればそこにいたのは七海だった。ごめん、と小さく謝れば、いつも通りのため息が返ってくる。

「アナタの周りにいる人は、距離が近すぎる気がします」
「え?」
「アナタも、隙がありすぎる」

はあ、ともう一つ大きなため息をついて、七海は隣に並んだ。さっきの五条先輩より距離があるはずなのに、心臓の音が少しだけ速くなる。なんだか、この前の帰り道の、あの熱のこもったような視線を思い出してしまう。

「チョコレート?・・・バレンタインですか?」
「うん。五条先輩が作ってってうるさいから」
「なるほど」

そんな先輩をすぐに想像できたであろう七海が、眉を歪ませた。わかる。わたしもその時おんなじ顔してたから。

「暇なら手伝ってよ」
「嫌ですよ。五条さんのなんか」
「わ、言ってやろっと」

その言葉に思わず吹き出せば、七海に頭を小突かれる。見上げれば、七海も眉を下げて小さく笑っていた。
次は生地を作らなきゃ。はあ、工程が多いなあ。ほんと、なんで五条先輩のなんかにこんなに手間暇かけなきゃいけないんだ。貴重な休日の午後だっていうのに。

「何を作ってるんですか?」
「フォンダンショコラだよ」
「そりゃまた面倒くさそうな」
「でしょう?」

美味しいものに詳しい七海はやっぱりこの焼き菓子も知っていた。同情するような視線を受けながら、常温に戻したバターをヘラで練る。

「先輩ってほんと、甘党だよねぇ。ほら、このチョコも甘いやつなの」
「へえ」

七海はボウルに残ったままのガナッシュを、人差し指で掬ってぺろりと舐めた。それ、食べて大丈夫かな。まあチョコと生クリームしか入ってないから大丈夫か。見上げた先で、七海は少し険しい顔をする。やっぱり七海には、少し甘すぎたみたい。

「甘いでしょ?」
「はい。私はもう少し甘さが控えめな方が好きです」
「そうだよね」
「・・・・・・」

むっとした顔で、何かを言いたそうに七海はわたしを見下ろす。その表情の意味がわからず、瞳の色から答えを探るように七海を見つめ返した。・・・七海は甘さ控えめが好き。そう、わかった、覚えておくね。さて、何と返せば正解だったのだろう。

「・・・私には作ってくれないんですか?」
「へ」
「バレンタイン」

思わずぱちぱちと瞬きを繰り返す。先輩の次は、七海まで。元々みんなの分も一緒に作るつもりだったから、今回はカップケーキで作っている。だからもちろん、七海の分だってある。

「七海の分もあるよ?」
「はい。でも、私には少し甘いので」

自分の分があるとわかってなお、七海は食い下がる。
考えあぐねるわたしに痺れを切らした七海は、こほん、と小さく咳払いをする。

「こんなに手間のかかるものでなくてかまいません。もう少し、甘さが控えめなものを作って欲しいのですが」
「・・・」
「ダメですか?」

そんな言い方されちゃ、ダメなんて言いづらい。答えを待つ間、七海はわたしの瞳を覗き込むように見つめる。なんだか、照れくさいな。その視線から逃げるように、手元のバターに再び目線を落とした。

「・・・わかった。七海のだけ別で作るよ」
『約束ですよ』

どこか弾んだ声の七海を盗み見れば、嬉しそうに目を細めている。なんでわたしの手作りなんかが嬉しいんだろう。そう思うのに、頭の中では七海のために何を作ろうか、今から考え始めている。どうしてなんだろう。七海の一言で、こんなにも浮かれた気持ちになっているのは。



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