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「今帰りですか」
「・・・七海、」

エントランスに向かって歩いていれば、後ろから声をかけられた。振り返れば、ネクタイを少し緩めた七海が数メートル先からわたしを見つめている。

「うん、今日はもう帰り」
「送りましょうか?」

いつもはくたくたでスーツのまま帰路に着くわたしも、今日は定時退社で私服に着替え、その上アクセサリーまで付けているんだから、七海が目を丸くするのも無理はない。

「ありがと。でも、今日は大丈夫」
「・・・どこか行くんですか?」
「うん。今から伊地知くんと飲みに」

まだ空は半分夕焼けだ。五条先輩を現場まで送り直帰を許された伊地知くんと連絡を取り合い、久しぶりに二人で飲みに行くことにした。前回は五条先輩が任務先で有名なスイーツを買いに並びたいと突然言い出したため予定が流れてしまったから、二人で会うのは久しぶりだ。普段から迷惑ばかりをかけられるわたしたちは、お互いを励ますためにこうして度々二人で飲む時間を設けている。別名、五条悟被害者の会ともいう。
五条先輩の気まぐれで、今日の会がなくならないようにと願うばかりだ。

「それ、私も行っていいですか?」
「え?」

かつかつと靴音を鳴らして隣に並んだ七海が、首を傾げ、わたしの顔を覗き込む。

「伊地知君に確認してもらえますか?」
「う、うん」

やけに真剣な声色に、言われるがままに頷いてしまった。伊地知くん、大丈夫かな。一応彼にとって七海は先輩だし。いやまあわたしもなんだけど。七海がいたら、気が休まらないんじゃないだろうか。五条先輩の愚痴も言いづらくなるかもしれない。

「珍しいね。七海も飲みたい気分だったの?」
「まあ、そろそろ伊地知君を牽制しとこうかと」
「は?」
「いえ、こちらの話です」

スマホでメッセージを送信すれば、すぐに返信が来た。さすが、社会人の鑑。即レスだ。
そこには「了解です」と短い文章が書いてある。

「大丈夫だって」
「そうですか。じゃあ、今日は私の車で」
「え、」
「なんですか?」
「いや・・・」

七海の車に二人か。ちょっと緊張するなあ。一瞬ぎくりとしたわたしの表情を七海は見逃さなかった。そりゃあ任務の時も二人で車に乗るけれど、あれは仕事だし、わたしも運転していて大分気が紛れるし。七海の車の助手席に座るのとは、全然違う気がする。

「なんか、緊張する」
「いつも二人で車に乗ってるのに?」
「それとこれとじゃ全然違うよ」

思わず素直に口から言葉を溢せば、七海はふ、と息を漏らすように笑った。どうせ、ちっちゃなことであたふたしているわたしを見て、面白がっているんだろう。七海の後ろ姿を追いかけながら駐車場までの道のりを歩く。一台の車のハザードランプが点滅し、ロックが解除された。あれが七海の車か。・・・高そうだなあ。

「どうぞ」
「・・・・・・」
わたしと七海の距離感的に、一体どこに乗れば。
「助手席、乗ってください」
「は、はい。・・・失礼しまぁす」

なんで急に恭しくなるんですか。
そう言って、七海は揶揄うような視線を寄越す。だって、七海の運転する車の助手席に乗るって、なんだかその距離の近さに急に緊張してきたんだもん。靴の裏、泥とか付いてないかな。ぴかぴかの車内に一歩足を踏み入れ、シートに腰を下ろした。いつもとただ逆の位置にいるだけなのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。 

「お店の場所、教えてもらえますか?」
「う、うん」

ナビを入力しようとする七海にお店のサイトを開いたスマホを差し出せば、ほんの少し指先が触れた。跳ねるように手を引っ込めたわたしとは対照的に、七海はありがとうございます、とお礼を言って、なんでもないように住所を入力している。

「では、行きましょう」

七海はゆっくりとアクセルを踏んだ。いつもは見慣れた高専から出発するこの道も、助手席からはまた違った印象で見える。田舎の長閑な風景が気持ちの良いスピードで流れていく。

「七海、運転上手いね」
「そうですか?あまり人を乗せないので、自覚がないんですが」
「そうなんだ」

なぜだかその一言にほっとした。七海が誰を乗せていたって、わたしには関係ないはずなのに。

「それに、アナタだって上手いですよ」
「わたしは散々五条先輩から指導されたから」

あの苦い日々を思い出す。急発進や急ブレーキをしようもんなら永遠に文句を言われたし、免許を取り立ての時、いつまでも合流ができないわたしを五条先輩は罵った。

「まだあの人たちのこと、先輩と呼ぶんですね」
「うん。学生みたいだよね。変えないととは思っているんだけど」
「いえ、そういう意味で言ったのでは」

ずっと一緒にいたから、変えるタイミングがなくて今でもずっと先輩呼びのままだ。学生生活が終わった次の日にはもう社会人だったのだから、呼び方の切り替えなんてできなかった。せめて、本人たちの前だけで呼ぶようには気をつけているんだけれど。

「伊地知君とは普段どんな話を?」
「八割が五条先輩の愚痴かな」

でしょうねえ。とまるでその場にいたかのような口調で七海は相槌を打つ。わたしもまあまあ酷い扱いだけれど、伊地知くんなんて優秀なばっかりに上層部とも板挟みになってしまっていて気の毒だ。彼の胃に穴が開く前に、たまに毒を抜いてあげたいと思うのだ。

「他には?」
「えっと、次に行きたいお店の話とか、お互いの家族の話とか、あ、仕事の話もするよ」
「そうですか」

七海の運転はスマートだ。順調に目的地へと進んでいく。今日のお店はタイ料理。何を食べようかと頭にメニューを浮かべていく。伊地知くんは辛いものが食べれないからなあ。それに、七海は平麺が食べれない。あれ、パッタイって平麺に入るのかな。

「七海、これからはたまに誘っていいかな?」
「はい?」
「みんなでごはん行く時とか」

いやです、とか、返ってきたらショックだ。少しだけ尻すぼみになりながら、そう問いかける。今の七海なら、きっと仲良くなれるとなんとなくそう思うのだ。乗った時はあんなに落ち着かなかった七海の助手席も、気づけば穏やかで楽しい時間を過ごせるくらいになっていた。

「はい。・・・ですが、」
「ん?」
「次は二人で食事でもどうですか」
「え?」

ちょうど良いタイミングで信号が赤になる。ゆっくりとブレーキをかけ、車が停車した。七海はわたしの答えを待ち、射抜くような瞳でじっと見つめている。なんで、とか、みんなとじゃだめなの、とか。聞きたいことはたくさんあるのに、その目があまりにも真っ直ぐで、問いかけることができない。

「・・・うん」
「約束ですよ」

楽しそうに、七海は目を細めて笑う。信号は青に変わり、ゆっくりと七海の運転する車が発進する。さっきまであんなに気を緩ませてのほほんと座っていたこの座席に、再び居心地の悪さを感じた。さっきまで、どうやって話してたっけ。どぎまぎとしながら、助手席から見える窓の外の景色を見つめる。お店にはあとどれぐらいで着くだろう。突然押し黙るわたしに気づいて、七海が堪えるように小さく吹き出した。




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