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「あ!」

目の前を横切る猫を追って、慌てて片手で掬い上げる。ぎゅっと抱えるようにその身を守り、気づいた時には呪霊によって壁に叩きつけられていた。くらくらとする頭を起こしてなんとか腕の中を覗けば、茶トラの子猫が小さくにゃあと鳴く。良かった、無事みたいだ。

「名前!」

七海の切羽詰まった声が聞こえる。早く立たなきゃいけないのに、頭がまだぼんやりとしている。壁に寄りかかったまま項垂れるようにして息を整える。頭から流れる血で前はうまく見えないし、鼻から止めどなく流れているのは鼻血だろう。立ちあがろうと足に力を入れれば、足首がずきんと痛み、たちまち力が抜けてしまう。やばい、どこもかしこもどんどん痛くなってきた。

「大丈夫ですか!?」
「うん、大丈夫」

残り少ない力を使って子猫の額をそっと撫でれば、目を細めてにゃあと返事をする。かわいい。高専で飼ったらだめだろうか。あとで補助監督さんに聞いてみよう。

「どこが大丈夫なんですか」
「ほら、猫ちゃんはどこもケガしてないよ」
「アンタの話をしてるんだ」

心配しているようにもイラついているようにも見える。七海はわたしの前にどかりと座って、ポケットから取り出したハンカチでわたしの頭の傷を止血する。どっちかっていうと鼻血の方が恥ずかしいから早めに拭いて欲しいんだけどな。でも七海のハンカチだから、そんなわがまま言えないし。

「七海、大丈夫だよ。ハンカチ汚れちゃう」
「じゃあアナタは持ってるんですか?」
「・・・忘れた」
「わかってましたよ」

はあ、とこんな時にも大きなため息をつかせてしまった。悪態をつきながら、七海はてきぱきとわたしの止血をし、ケガの状況を確認していく。ふと触れられた足首に顔を歪めれば、七海はじっと正面から咎めるようにわたしを見つめた。

「どこが大丈夫なんだ」
「・・・スミマセン」
「とにかく、ここで待っていてください」
「ごめんね、役立たずで」

七海は立ち上がる。今度こそ幻滅されちゃったかな。膝の上の子猫はわたしのそんな気持ちなんておかまいなしに、ぐるぐると喉を鳴らして丸くなって寝ている。

『あんまり、心配させないでください』

肩越しに一言そう言って、七海はまた呪霊の元へ駆け出した。
・・・七海が、心配。わたしを?
いやいやそんなわけ、と首を振って、思い返す。いつも冷静な七海が、見たことないくらいに切羽詰まった顔してた。それに、いの一番にここまで走ってきてくれた。傷の手当てだって、自分のハンカチが汚れるなんて微塵も気にしていなかった。
言葉とは裏腹に、そのわかりづらい優しさに気づいて今更恥ずかしくなる。どうしてこんな時なのに、七海のことを思い出してどきどきと胸が苦しくなるのだろう。







「帰りますよ」

膝の上で眠っていた子猫がその足音に驚いて、ぴょんと軽快に地面に飛び降りた。そのままぐっと伸びをして、とてとてと草陰に向かって歩いていく。あーあ、行っちゃった。連れて帰りたかったなあ。
去っていく子猫を目で追っていたわたしに影がさす。目線を上げれば、相変わらずの整った顔に、大きな擦り傷を作った七海がわたしを見下ろしていた。
七海に借りたハンカチのおかげで、どうやら額の傷の血も鼻血も止まったみたいだ。試しに軽く足首を動かしてみれば、残念ながらこちらはずきりと痛みを増す一方だった。
・・・これは、流石に一人では歩けない。

あの、七海、お願いが。
そう言葉を発しようと再び顔を上げれば、視界いっぱいに七海の背中があった。

「ほら」

七海はしゃがんで後ろ手に両手を広げ、わたしにその背中を差し出す。・・・この体勢って、ま、まさか。

「早くしてください」
「でも、」
「じゃあアナタはどうやって帰るんですか」

その足、痛くて立てもしないくせに。
肩越しに振り返った七海が、四の五の言うなとでも言いたげに眉間の皺を深くする。その額には青筋が浮かび、これ以上何かを言うもんなら、七海の言葉遣いはきっとどんどん悪くなるだろう。もうどうにでもなれ、と意を決してその背中にゆっくりと体重を預けた。七海はわたしを軽々と背負い、補助監督さんの待つ方へ歩き出す。いつもひょろりと細くて頼りなさげだと思っていたその背中は思ったよりもがっしりとしていて、やっぱり七海も男の子なんだなあと当たり前のことを再確認する。何より、七海の背中から伝わる温もりが心地良くて、今すぐ下ろして欲しいくらいには恥ずかしいのに、何故だか不思議と安心する。

「ハンカチ、汚しちゃってごめんね」
「そう思うなら次から忘れないでくださいよ」
「・・・善処します」

また怒られるかな、と思いながら返事を待っていたら、くつくつと堪える様に七海が笑って、触れているその背中が小さく揺れた。

「あの子猫、飼いたかったなあ」
「ダメですよ、アナタ絶対世話なんて出来ないでしょう」
「なんだと」

二人だけの時間が静かに流れている。この状況に照れくさくなってはぐらかす様に話題を振れば、何が楽しいのか七海はまた小さく笑った。わたしを背負い、こうしてまた面倒をかけてられているにも関わらず、七海はなんだかご機嫌だ。
わたしはこのうるさい心臓の音が、背中越しに七海に伝わりませんようにと、祈るように思っている。



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