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※捏造 七海は高専に戻ってから一級になったという設定です





高専に戻ってきてから、七海の任務のレベルは日に日に上がる一方だ。きっと五条先輩は七海を一級術師にするつもりなのだろう。先輩のその意図をわかっているであろう七海は、今日も何食わぬ顔で任務にあたっている。

秋の天気はころころと変わり、今日は朝から強い雨が降っている。だけど天気なんて関係なく、わたしたちの仕事はいつでも決行だ。いつもは汚れひとつない七海のぴかぴかの革靴は泥が跳ね、ぴんと張った質のいいスーツの裾も色が変わるくらいに濡れてしまっていた。クリーニング代、一体いくらかかるんだろう。傘の先から見える七海の足元を見つめ、ぼんやりとそんなことを考える。

「雨が酷いので、車で待っていてください」
「うん、わかった」

あまりに実のない返事をしてしまった。やっぱり七海に見抜かれて、じろりと咎めるような目でわたしを見下ろしている。だけど七海がこれ以上何も言ってこないのは、何を言われてもわたしがここから動く気がないことをわかっているからだろう。

「じゃあ、帳を降ろすね」
「お願いします」
「・・・七海、気をつけてね」

七海は小さく頷いた。いつものとおりに唱えれば、するすると帳が降りていく。その中で、七海はくるりと背を向けて躊躇なく建物の方へと歩き出した。

この大雨のせいか、山頂から絶景を眺められることで有名なこのドライブウェイを通る車はほとんどいない。今はもう一部が骨組みだけに崩れてしまったこのドライブインも、昔はそれなりに賑わっていたのだろうか。なんだかそれが信じられない。
傘を持つ指先が悴んでいる。ふう、と息を吐けば微かに白くなった。山の中はやっぱり冷える。もう少し経ったら車のエンジンをかけて、車内を暖めておいてあげよう。
なんとなく、というのはそもそも呪霊がいるからここに来たわけでおかしな考えなのはわかっている。だけど、ここはいつもより陰鬱として、あまり長くはいたくないような、気持ちを不安にさせる場所だ。
祈るような気持ちで帳を見つめる。
七海、大丈夫かな。





「七海!」

七海は土砂降りのなか、脱いだジャケットを片手に傘も差さず、ゆっくりと帳から出てきた。濡れた前髪が顔を覆い、その表情はここから見ることができない。跳ねる雨粒も気にせず駆け寄って、持っていたわたしの傘をずぶ濡れの七海に傾ける。

「すみません。傘、どこかにいってしまって」
「そんなこと、」

近くで見た七海は、ひどく疲れた顔をしていた。まじまじと見上げた七海の顔に、心臓がどきりと嫌に鳴った。この雨に薄まっているけれど間違いない。これは血だ。
なりふり構わず背伸びをして、濡れて下りた七海の前髪をかき上げる。額からこめかみにかけてぱっくりと割れたような傷があった。

「大丈夫!?」
「ええ。戻って家入さんの治療を受ければ大丈夫です」

でも、そう続けた七海を見上げれば、七海もまたわたしを見据え、至近距離で見つめ合う。七海の体が冷え切っているせいか、普段から白い肌が青白いほどに白く見える。翠がかったその瞳は大きく揺れて、今にも泣き出してしまいそうにも見えた。
それを隠すためか、七海はわたしの肩に額をのせ、ふうと長い息を吐く。まるで自分が正しく呼吸ができているのかを確認するかのように、静かに、静かに息をしている。

「下半身を食われた青年が、」

七海が何を言いたいのか、もうそれだけでわかってしまった。

「そのまま取り込まれてしまいました」

もう事切れていたとしても、七海はその子を助けたかったのだろう。きっとあの日を思い起こし、重ねたのだろう。その瞬間の七海の気持ちを言葉にせずとも手に取るようにわかってしまい、胸が詰まる。

「また、助けられなかった」

あの日に関することを、七海から直接聞くのは初めてだった。
術師はいつだって非術師のために戦って傷を負い、人知れず命を落とす。呪いを発生させるのはいつだって非術師のはずなのに。大切な人が傷つけられるたびに思う。この世界は不公平だ。夏油先輩の考えが正しいとも思えないけれど、その考えは十分に理解できる。どうしてまた、七海がこんなふうに傷つかなければいけないんだろう。

傘を差し出していない方の腕を伸ばし、七海の背中にそっと手を添える。驚くほどに冷え切った七海の身体は、あの頃よりも一回りも二回りも大きくなっていて。一体この人は、どれだけの努力しているのだろう。
ああ、なんだかわたしまで泣きたくなってきた。

「名前、」
「うん」

その姿勢のまま、七海はぽつりと掠れた声でわたしの名前を呼んだ。

「ありがとう」

なんと返せばいいのかわからず、返事の代わりにぎこちなく七海の背中を大きく二度さする。
救える日、救えなかった日。この途方のない地獄が続く限り、きっとこれからもその繰り返しだ。
シャツの上から触れる七海の冷え切った背中から、仄かな体温を感じる。それでも、生きている。一つの傘の中、耳元で聞こえる静かな呼吸が、七海が確かに生きていることを教えてくれた。




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