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ふさふさと尻尾を左右に振って、大五郎は今にも立ち上がらんばかりに嬉しさを全力で表現する。この喜び方、またお母さんだったりして。ワンと吠えたその先を見つめれば、夏の強い日差しを浴びながら、軽やかに走るその姿が見えた。膝には見慣れたサポーターをしている。

三井が帰ってきたのだ。



数メートル先で立ち止まるわたしたちに気づいた三井は、速度を落として歩み寄ってくる。どこか照れくさそうな顔をして、三井は正面に立った。その足元には、長く濃い影が伸びている。

「おかえり」
「・・・ただいま」

シャツの首元を伸ばして、三井は流れる汗を拭く。
会えたらいいなといつもどこかで期待していた。約束なんてしてないし、そんな奇跡、滅多におきるはずはない。それなのに、この賑わう夏の海辺で、三井は理屈なんてお構いなしで目の前に現れた。

「帰ってきたんだね」
「まあ、負けちまったからな」

三井はさっぱりと言う。
きっともう、次の目標に向かっているからなのだろう。

「かっこよかったよ」
「・・・お前って、なんでいつもそーいうことさらっと言えんの」

三井は面食らったような顔をして、それから慌てて口元を引き結んだ。わたしの視線から逃げるようにしゃがんだ三井は「おーよしよし、いい子にしてたか」と大五郎に話しかけながら、わしわしと豪快に撫でている。
わたしはきっと、あの瞬間を生涯忘れないと思う。一つ一つのプレーが、今でも目に焼きついて離れない。胸が熱くなって、涙が溢れた。そんなこと、人生で初めてだった。あんなに素晴らしい景色を見せてくれたこの人を、かっこいい以外になんと表せばいいのだろう。
目を細めて愛おしそうに大五郎を撫でる横顔を見て胸がきゅっとなる。目尻を下げて笑う顔も、照れくさそうな顔も、ボールを追いかける真剣な顔も。わたしは三井のどんな表情も見逃したくなくて、いつからかずっと、夢中で追いかけていた。
気づかないふりして逃げてきたその気持ちは、もう隠せないくらいに大きくなってしまった。

「三井のこと、好きみたい」
「あ?また犬か?」

オレもお前が好きだぜー。間抜けな声で、三井は大五郎をわしゃわしゃとめちゃくちゃに撫でている。
たしかにこの前はそうだった。でも今は、

「・・・違くて、わたしが」

わたしの声は震えていた。勇気を出し、自分のつま先から視線を上げ、三井を見る。ようやく視界に入った三井の表情は、口は大きくぽかんと開いて、目はまん丸。そのままで微動だにしない。ただただ気まずい沈黙がわたしたちの間に流れている。
・・・これは、言わない方が良かったかな。

「ご、ごめん、忘れて」

あまりの居た堪れない空気にこの場から今すぐ逃げ出したくなって、数歩分じりじりと距離を空けながら、大五郎のリードをぐっと引く。三井はぽかん顔のまま、わたしを見つめ動かない。そんなわたしたちを交互に見上げ、大五郎はその中心でふわふわと尻尾を振っている。どんなに力強くリードを引いても、てこでも動こうとしない。いやいやいや、空気読んでよ大五郎。ほら、ゴー!だってば!

「オレが、」
「え」
「オレが先に言うつもりだったんだよ」

額を手のひらで覆い、膝の間に顔を埋めた三井は、しおしおと消え入るような声で言う。かろうじて聞こえたその言葉に驚いて、今度はわたしが三井を見つめた。いや、都合の良い聞き間違いかもしれない。そう思うのに、隙間から見える三井の耳は、びっくりするくらいに赤い。
スニーカーのつま先を見つめ、大人しく三井の言葉の続きを待つ。じりじりと太陽が照りつけ、こめかみを汗が流れる。どきどきと、うるさいくらいに心臓が脈打つ。それはまるで永遠かのような時間の長さに感じた。

「オレも、名字が好きだ」

だけどオレも選抜あるし、お前も受験あるだろ。だから、中途半端なことできねえし、全部けじめつけてから言おうと思ってたんだよ。なのに、お前に先に言われるなんて。油断してた。
ゆっくりと立ち上がりながら、三井はまるで文句みたいにぶつぶつと言う。

「かっこわりいだろ、先に言わせるなんて」
「ま、待って」
「ああ?」

ち、ちょっと待って、全然理解が追いつかない。三井が、わたしを好き?しかもあの三井から、け、けじめって。都合良く汲み取っただけの、ただのわたしの自惚れかもしれない。
だけど、これって。

「も、もしかして、三井ってわたしのこと、めちゃくちゃ好きだったりする?」
「・・・悪いか」

三井は地面に顔を向けたまま、目線だけでわたしを見上げた。眉間に皺を寄せ、その唇は、照れた時の癖で突き出すように尖っている。いつか見たみたいに三井の頬が赤いから、もう冗談だとは思えなくて。
何か、返さなきゃ。そう思うのに、胸がいっぱいで言葉が思うように出てこない。そんなわたしを見て不安に思ったのか、三井が屈んで視線を合わす。

「な、なんで泣いてんだ?」
「だって、嬉しくて」
「・・・そうかよ」

大五郎がわたしと三井の顔を交互に見上げて、わけのわからなそうに、でも嬉しそうに、尻尾を振って二人の間をくるくると回っている。それを見て、三井と目を合わせてくすりと小さく笑った。

「冬になったら、もう一回オレから言わせて」
「うん」

強い海風に吹かれた髪が、一房顔にかかる。慌てて抑えようとすれば、三井がその髪を指で掬って、わたしの耳に引っ掛けるように撫でつける。見上げれば、まるで愛おしいものでも見るように、三井が目を細めてわたしを見つめていた。
それだけで、苦しいほどにどきどきする。目が、指が、わたしを好きだと言っているみたい。三井は今までも、わたしを大切にしてくれていると思っていた。だけどそれは、たった一片のことだったのかもしれない。

「送ってく」
「ありがとう」

たまには素直に甘えてみようか。三井はどんな表情をするだろう。盗み見るはずだった三井は、わたしを見つめ、優しい顔をして笑っている。
冬になったらどきどきしっぱなしで心臓が止まってしまうんじゃないか、なんて、有り余るほどの幸せな悩み事ができてしまった。






それから。
この冬最初の雪予報が出た、ある日の帰り道。わたしが右手の手袋を外して、隣を歩く三井の手を取って歩くのは、もう少し先の話。




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