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「ちょ、名前!名前!」
「なあに、お母さん」

リビングのドアを突き破る勢いで開けたお母さんは、とんでもない力強さで手招きをする。早く早くとわたしを急かす声は信じられないくらいにうるさい。これ、絶対近所迷惑のやつじゃん。さっきまでリビングでボール遊びをしていた大五郎は興が冷めた様子で、「何事ですか」とでも言いたげな顔でお母さんを見つめている。

「三井くんから電話!」
「え!?」
「は!?ちょっと名前三井くんって誰!?」

お姉ちゃんの突き刺さる視線を振り切って、慌てて廊下の電話機まで走る。ほんとに三井から電話きた。あれ、明日の朝広島行くんじゃなかったっけ。ごちゃごちゃと頭にはいろんなことが浮かぶのに、結局は嬉しいという気持ちばかりが溢れていく。
保留のボタンを解除しようとしたところで気づく。あ、これ、お母さん保留にしてない。

「三井?お待たせ」
「お前んち、みんな元気だな」
「・・・なんかごめん」
やっぱり全部聞かれてた。
「それでこそお前の家族って感じ」

今のやり取りからそう連想されてしまうのはなんだか不名誉だ。それにしても、お母さんのあの尋常じゃない大騒ぎ、聞かれてたなんて。今もリビングではお母さんとお姉ちゃんがきゃあきゃあ言いながら、ちらちらリビングのドアを開け、わたしを指差し噂している。絶対なんか余計なこと言ってる。どうか三井には聞こえませんように。

「それより、どうした?」
「・・・あー、いや、特に用はないんだけど。今大丈夫だったか?」
「うん」

特に用はないと言う割には、三井の声色はいつもと雰囲気が違う。言葉を選んでいるのか、受話器の向こうの三井は黙ったままだ。明日の今ごろは、三井はもう広島にいるんだ。もしかして、三井でも緊張してたりするのかなあ。

「三井、一年の頃よく言ってたこと覚えてる?」
「あ?」

不意をつかれて、三井は素っ頓狂な声を出す。

「オレが入ったからには全国だーって」
「おま、よく覚えてたな」
「こっちが忘れられないくらい、三井言ってたから」

まさに、有言実行ってやつだ。
赤木も木暮も、すごい選手が入ってくるととても喜んでいた記憶がある。俺たちの代で全国に行けるかもしれないと。あれから時間は過ぎたけど、彼らは本当に叶えてしまったのだ。すごいなあ。その意志も、努力も。誰にだってできるものじゃない。だからこそ思う。

「三井、」
「ん?」
「大丈夫だよ」
「・・・・・・」
「三井らしく、楽しんできてね」
「・・・おー」

沈黙のあと聞こえた三井の声は、どうやらもういつも通りみたいだ。さっきまで緊張感のあった沈黙も、もう心地良いものに変わっている。

「急に悪かったな」
「ううん、暇だったし」
「明日広島行く前に、お前の声が聞きたくなった」
「・・・そ、そう」

三井はさらっと言う。こっちはその一言で、こんなにもどきどきして仕方ないというのに。恥ずかしいのに、でも、そう言ってもらえることが嬉しい。それは、まるで、三井の特別になったみたいで。
電話口の三井の声は、いつもより低く響く。その甘く優しい声は、わたしをどきどきさせて、でもなぜか、安心させる。まるで反対の気持ちなのに、不思議だ。

「わたし、三井の声好きだなあ」
「・・・お前なあ」

やれやれ、という声色も、やっぱり優しい。なんだかこの空気がむず痒くなってきて逃げ出したくなったわたしは、適当な話題を見つけ、三井に振ることにした。突然の脈絡のない質問に、三井はきっとぽかんとするだろう。

「三井って、なんで湘北入ったんだっけ」
「あ?なんだよ突然」
「そういや知らないなあと思って」
「安西先生がいたから」

意外な言葉に驚く。そうだったんだ。
好きなラーメン屋も、嫌いな教科も、どうでもいいことばかりをたくさん知っていて、三井が大切にしているものは、わたし、全然知らないんだ。

もっと三井のことを知りたいと言ったら、三井はどんな顔をするだろう。
バスケを始めた理由や、初恋はいつだったか、とか。三井の家族はどんな感じで、子供の頃好きだったアニメは何だったか。なんだっていい。どんなくだらないことでも、聞いてみたい。三井が昔好きだったもの、苦手だったこと、嬉しかった思い出や、大切にしているもの。

「三井、」
「ん?」

三井はいつも、優しく次の言葉を待ってくれる。この優しい声を知っているのは、わたしだけだったらいいのに。




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