俺が彼女を愛していたことは、紛れもない事実なのだ。
「ああ…」
例え、この両手が彼女の血に濡れたとしてもそれは変わらない事実だ。歴史として後世に猿飛佐助は自分の妻を殺めた惨い男だ、とか彼の精神状態は云々。そう言われ伝わったとしても構わない。この事実だけを自分と旦那とが知っていれば良い。良いのだ。
「ああ、」
今日何度目かのそんな溜め息を吐きながら、自己満足にもならない言い訳を考えていた。
En toen…,
「貴男様の妻となったみぎりより、斯様な覚悟はしておりました。」
長い睫毛に縁取られた瞳が柔らかく細められた。それと反比例して胸の重さはどんどん黒い鉛となって募って行く。
「そんな謙虚な答えされると…俺、困るよ」
「佐助様を困らせる気など、露ほども御座いませんのに」
「うん」
「どうして?」
「何が」
「どうしてお困りになるの?」
彼女が妙に少女っぽく尋ねた。意地悪に聴かないでよと答えれば、まあと首を傾げて微笑む。
「私、意地悪なんてしてないわ」
「してるよ。」
「そう?」
「そう。夫にすら心の内を明かさないのは、意地悪でしょう?」
彼女は頬から細やかな笑みを消した。替わりに悩ましいほどの女の顔をした。
眉をひそめて、さも私は今泣くのを我慢しているのですと言いたげに畳を見つめた。
「佐助様」
「なに」
「わたし、こわい」
「…うん。」
「わたし、私、嫌よ。貴男様の元を離れるのも、人質になるのも嫌よ。」
嫌よ。
「――うん。」
旦那の険しい表情と、佐助の奥方をと条件を出したのだ。そんな絶望的な言葉とを思い出した。
俺は確かに彼女を愛している。それに間違いはない。この戦国の世に珍しい恋愛結婚だ。好いていないわけがない。もう、もういっそのこと彼女を今殺して自分も死のうかと思うほどだ。
いっそ、
「いっそのこと」
彼女がふと、顔を上げた。
「二人で今、死んじゃおうか」
彼女が顔をまた伏せて、ゆるゆると首を振った。
「私は、貴男様を好いているのに」
「俺だって」
「貴男様は何故ご自身を殺めようとなさるの?」
一瞬、彼女の言いたい意味が分からなかった。
しばらくして真意に気が付き、思わず妻の手を握った。
「人質だからとて、必ず死ぬこともありませんよ」
「だからって相手の思うようにされる」
「貴男様のことを想えば地獄の苦行にだって耐えてみせます。それに」
妻が、顔を上げた。涙を流しているのに頬は赤く、唇は弘を描いている。
「もしも私に何かあれば、佐助様が颯爽と現れて下さいますでしょう?」
握っている手に力を込めた。
「勿論、勿論じゃない」
「はい」
「信じててよ」
「はい」
手の甲に口づけをする。
「また、この城で貴男様に」
ぎゅうっと抱き締められたいわ。そんな子供みたいなことを呟いた。
呟いて、妻は同盟の証として敵国へ輿に乗って行った。
今にして思えば、自分の妻を敵国へ(いくら同盟の証とは言え)寄越す自分が悪いのだ。やはり、あのまま死ぬべきだったかとすら思う。
証として行ってからひと月後、同盟国は寝返った。
酷い戦場だった。
白く美しかった城壁は黒い煤にまみれ、二の丸は勿論、天守閣は炎に包まれ崩れて行く。
「佐助」
燃え盛る天守閣を唯一の逃げ場から見詰めていると、旦那に後ろから声をかられた。
「奥方は」
「…奴さんと逃避行する所だろうね」
「生きておられるのだな」
「うん」
遠くから幽かに蹄の音がした。
「来た」
クナイを構え、やって来た馬に向かいさっと投げる。
どっと馬が倒れた。
「貴様」
影から城主と刀を突き付けられた彼女が現れた。
「佐助、」
「佐助様っ」
彼女が腕を伸ばした。
あっ、そんな声と共に自分も伸ばせば、城主の刀も煌めいた。
「さ」
嫌な音だった。きっと、この世で一番嫌な音だ。
彼女がゆっくりと倒れた。
「あ、ああ」
彼女に駆け寄る。
旦那が槍で城主を貫いた。
城主がゆっくりと跪いた。
彼女は、妻は――
抱き抱えると、幽かな呼吸と共に彼女は柔らかく微笑んだ。
「佐助様」
「喋っちゃ」
「いいえ、言わせて」
柔らかい髪が手にかかる。何と尋ねれば、首を少し傾げた。
「私は、どうせ死ぬのでしょうね」
「そんなこと」
「…ねえ、佐助様。私ね」
真田の旦那が少し遠巻きにこの光景を見ている。
「どうせ死ぬなら、貴男に殺められたい。」
ぱちりぱちりと炎のはぜる音が耳元でした。
「佐助、」
「…うん」
彼女がうっとりと目を閉じた。
人生で、この時ほどこの時代を恨んだことはない。
そして儚い君と僕
俺が彼女を愛していたことは事実なのだ。
世間がいくら妻を殺めた冷酷な者と自分を見ようと、その事実だけは変わらないのだ。
「ああ、」
何だか酷く、人間の生を切なく思った。
冷やり様へ
言いたい事は数あれど、取り敢えず長かった事とグダグダした事をお詫びしたいです。
実にすみませんと云うのかごめんなさい。
2010.03.21 春月さくら