音也は自分の席に着いてほっと息を吐いた。
しかし、その溜息にも似た息は以前までとはまるで別物であった。
紅潮した頬を包み込むように頬杖を付き、どこかうっとりとした瞳を視点を集中させることなく上の空を浮かべる彼の表情は恍惚としており、とても幸せそうだ。
音也のそんな表情を見つめ、友人はそれを、恋とよんだ。


僕の恋が叶うまでの10歩 05


「音也くん、なんだか前より物思いに耽けるようになりましたねぇ」
「だが以前に比べて幸せそうだな」
「ふふっ、見ているこっちまで恋っていいなぁって思っちゃいますね」

音也の後ろ姿を眺めながら那月と真斗は微笑んだ。
彼の友人たちは、彼と彼の想い人との関係が順調に足を進めていることに非常に満足している。何より、音也を纏う雰囲気が先日とは一気にがらりと変わり、ほわりとした優しいものになったことに2人は安心感を心に宿した。
そんな2人の双方瞳に映ったのは、音也に近付く小さな影であった。それはゆっくりと彼に近付き、そして止まる。その影に気付いた音也の見上げた横顔は、より一層赤く染まった。

「音也くん」

彼女の口から出た言葉に真斗と那月は驚きのあまり、勢いよく互いに顔を見合わせた。
だって彼女の口から出た言葉は紛れもなく彼の名前で。今まで苗字で呼び合ってた関係であった2人にはあり得なかった進展であったから。

「あ、莉子。お、おはよう!」
「おはよう。あのね、今日の放課後なんだけど、空いてる?レコーディング室予約しようかなって思ってて」
「うん!勿論空いてるよ!レコーディング室の予約行くの?だったら俺も行くよ」

多少のぎこちなさは未だ拭いきれない気はするが、2人は確実に仲良くなっていた。
緊張した面持ちだが、前よりずっと話せるようになった音也に、少しだけ近付く莉子。きっと、真斗や那月以外の人物が今の2人を見ても、親密になった関係に気が付くであろう。それほどまでに彼だけでなく、彼らの纏う雰囲気は一変した。
こうなったら気になってしまうのが人間の性であり、そして現状を聞きたくなってしまうのが友人としての性だった。
真斗と那月は互いに顔を見合わせたまま、確認を取るようにこくりとゆっくり首を縦に振った。いつもニコニコと笑顔な那月だけならず、あまり表情を変えない真斗の顔までもが楽しそうに笑って綻ぶ。2人の男の今の顔は、まるで男子中学生そのものだ。
「一十木」「音也くん」と、2人の声が仲良くハーモニーを奏でるかのように鳴ったのと同時に、音也は一瞬、背筋がぞくりと粟立つ感覚を覚えた。



音也は走っていた。
臙脂色のぶ厚い絨毯が敷かれた長い長い廊下をひたすら真っ直ぐに走った。見えなくなってしまった彼女の後ろ姿を追いかけるように早く、早く。
そんな彼の脳裏に浮かぶのは先程友人から受けた言葉であった。

(本当にそれでいいのか、かぁ…)

それは、仲良くなった経緯を話し、浮かれている自分に掛かった冷水のように冷たい、でも正確に的を得たぴしゃりと言い放たれた言葉だ。
音也は莉子と名前で呼び合うくらいに仲良くなれて、照れ臭い程に甘く初々しい、そのような擽ったい時間にひどく陶酔していた。彼にとって、彼女に名前を呼ばれ、彼女の名前を呼ぶことはそれほどまでに夢のような事であったのだ。
だから、彼は今の現状に満足してしまった。
音也は名前を呼び合い、笑い合うことだけで、まるで恋の最終地点はここだと言わんばかりに自分で決め付けて、幸せを噛み締めた。それが、恋という高く聳える山を登るということに喩えるとするなら、まだ登り始めたばかりの地点であるというのに。
音也自身、それに気が付いていない訳ではなかった。しかし、彼は気付かないふりをしてしまった。
そう、音也は臆病になっていた。
彼女に告白をして想いを伝えたところで何になる?もし駄目だったらどうする?ギクシャクしてしまったら?それで嫌われてしまったら?もう名前を呼んでもらえなくなってしまったら?もう笑顔を見せてもらえなくなってしまったら?自分の前からいなくなってしまったら?
関係が壊れてしまうのが怖い。君の気持ちが壊れてしまうのが怖い。何より自分の小さな恋が粉々に壊れてしまうのが、怖い。
そんな負の感情を取り巻く脳内に思考回路を支配され、音也は動くことが出来なかった。いや、動くことを恐れてしまったのだ。
だから、「告白しないのか」と言った2人の声を聞き、音也は慌てて首を横に振りながら「しないよ」「今のままでいい」と即答した。
すると、彼の気持ちを汲み取った友人はとても悲しそうに表情を曇らせた。音也は、どこか後ろめたさを感じ、2人から目を逸らしてしまう。彼は、自分がこれほどまでに臆病な人間であるということを初めて痛感した。

「音也!」

真っ直ぐな廊下を走る彼の足を止めたのは、明るいよく通る声であった。
声の持ち主は振り返らなくても分かる。しかし、音也は弾む息を整えながらゆっくりと翔のほうを振り返った。
彼の赤い瞳と翔のスカイブルーの大きな瞳がぶつかり合い、胸がざわざわと騒めく。音也はこの感じも、この気持ちも、好きではなかった。

「翔、どうしたの?」
「星野がさっき下降りていったぞ。お前のこと待ってるって」

胸がぎゅっと締め付けられる感覚に、音也は一瞬眉を顰めた。
締め付けられた胸に居座る感情は、罪悪感か劣等感か、はたまた闘争心か、それとも、

「うん、急ぐよ。ありがとう、翔」

音也は翔の元から踵を返し、再び走り出した。
彼の中にはもう、現状維持などという甘ったるい臆病な彼はいなかった。




このままでも、と何度も考えました
(でも君を誰にも取られたくないんだ)




12/09/02




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