教室から逃げるように出ていってしまった音也を見つけたのは、丁度レッスン室から昇降口へと移動していた那月と春歌であった。 那月は音也を見ると、驚いたような表情をしながらも「早く教室に戻らないとダメですよぉ」と、彼の背中をぐいぐい押しながら半ば強制的に再び教室へと放り投げた。 その後、音也と莉子が上手くレッスンを熟せたかという問いは、答えなくとも分かることであろう。 僕の恋が叶うまでの10歩 03 「はぁ…」 音也は自分の机に突っ伏しながら小さく溜息を吐いた。 どうすれば彼女と上手く話せるだろうか、どうすれば空回りをせずに済むだろうか、どうすれば彼女ともっと親密になれるのだろうか。 そんな事を考えながらも、音也はその原因が自分にあるということが理解出来ていた。 彼女の前では他の友人といるように接することが出来ないから上手く話すことが出来ず、意を決して話しても上手くいかずに誤解ばかりさせてしまい、挙句の果てには彼女の元から走り去ってしまう。このままでは、彼女と親密になるどころか、彼女との距離は開いてしまうばかりだ。 音也も担任である林檎の意図でくじ引きを引き、莉子とパートナーになったばかりの頃は、特別に彼女のことを意識していた訳でもなかったので、他の友人同様分け隔てなく付き合っていたつもりであった。 しかし、意識をしてしまった、自分の気持ちに気付いてしまった今は、前のようにはいかない。音也は机に突っ伏したまま、頭を抱え、唸り声を上げた。 「……重症だな」 そんな音也を遠目に見つめながら、真斗は目を伏せて息を吐いた。 真斗と那月が音也の恋を応援すると宣言してからというもの、音也の溜息は日に日に増えるばかりであった。いつも元気だけが取り柄と言っても過言ではないくらい元気の塊である音也がずっとあの調子であるから、正直、真斗と那月も戸惑いを隠せない。2人は、恋心を抱えた彼が、こんなにも初心な少年だと思っていなかったのだ。 「音也くんはもっとぐいぐいと押して押して押すタイプだと思ったんだけど違ったんですねぇ…」 「うむ、これは俺も誤算だった」 各人己の席に座りながら音也を見つめていると、深く考え込んでいる真斗の横で、那月がパッと明るい表情をした。那月は直ぐに「真斗くん真斗くん!」と隣にいる真斗のことを呼ぶ。 「僕、いいことを思いついちゃいました!」 そう言った那月の瞳はキラキラと輝いており、真斗は不思議そうに瞳をぱちくりと瞬かせることしか出来なかった。 「四ノ宮さーん!」 「あっ、ハルちゃん!こっちですー!」 遠方から聞こえる柔らかい声に気づいた那月は、その声の持ち主に向かって大きく手を振った。 その横で、先程から座っているのは、足を崩すことなく正座をしながら買い込んだ食料を整理している真斗と、胡座をかきながらも緊張した面持ちでピンと背筋を伸ばし目を泳がせている音也であった。 真斗に“いい事”を耳打ちした那月は、それから直ぐに作戦を実行した。那月は自分のパートナーである春歌に頼み、一緒に昼食を取る約束を取り付けたのだ。勿論、那月は音也と真斗と一緒に、そして春歌も莉子と友千香を連れてくることを条件に。 音也が1人で莉子のことを誘えないのなら、2人きりだと緊張して上手く話せないのなら、まずは大人数から始めてみましょう!というのが那月の思いついた“いい事”であった。真斗もその提案に大きく頷き、音也もそのほうがありがたいと申し出た為に、現在に至る。 それでも音也の心臓は大きく脈打ち、そわそわと1人落ち着かないままであった。 「すみません、お待たせしちゃって…」 「いえ、気にしないでください。ピクニックは大勢いたほうが楽しいですから」 春歌は申し訳なさそうにペコリと頭を下げてから空いている那月の隣に座った。友千香もその隣に腰を下ろす。 持参した弁当や購買のパンを買い込み、昼食の場として那月と真斗が選んだのは校舎裏の庭であった。食堂という手もあったのだが、あそこではガヤガヤと煩い上に他の生徒に話し掛けられて、本来話すべき2人が話せなくなっては困るということでこの場所を選択したらしい。那月が用意した可愛らしいピヨちゃんのキャラクラーが描かれたビニールシートの上には、色とりどりのパンやお菓子や飲み物が沢山並べられていた。 「…ん?星野はどうした?」 「あっ、莉子ちゃんはちょっと遅れてくるそうです」 春歌が答えながら友千香と買ってきたであろう紙コップを全員に配る。 友千香はその紙コップに飲み物を注ぎながら、音也に2つ分の飲み物を渡した。音也がきょとんとした顔でそれを受け取ると、友千香は「それ、莉子の分だから。渡してあげて」と意味深に微笑みながらウインクをした。 途端、音也の顔が一気に赤くなる。その様子を見た友千香は楽しそうにクスクスと笑い、真斗と那月は眉を下げて笑った。どうやら、2人の予想は当たっていたようで、彼らの他にも音也の恋心を気付いていた輩はいたようだ。 春歌はみんなが笑っている意味が分からず不思議そうな顔で首を傾げる。 「皆さん、どうかしたんですか?」 「な、なんでもないよ!」 春歌の問い掛けに、音也は誤魔化すように笑いながら取り繕う。春歌は今度は反対方向へ首を傾げた。 「あ、ほら、音也。莉子来たよ」 パタパタと走る革靴の足音が聞こえ、友千香の目線の先を追った音也の目に、莉子の姿が映った。 サラサラと髪を靡かせ、緑色のチェックのスカートを翻しながら走ってくる彼女の姿に、音也は一瞬で釘付けになった。先程までの友千香のからかってくるような会話や、疑問を浮かべる春歌との会話も頭からすっぽりと抜けてしまうくらい、莉子を見ると一瞬で頭の中が彼女でいっぱいになってしまう。音也の瞳には、それくらい、彼女の姿はキラキラと輝いて見えた。 「ごめん、遅くなっちゃって…。先に食べててよかったのに」 音也たちが座り込むビニールシートの手前まで走ってきた莉子は、上がった息を整えながら申し訳なさそうに眉を下げた。 「音也くんが莉子ちゃんが来るまで待ってようって言ったんです」 「えっ!?」 「あ、そうなんだ。ありがとう、一十木くん」 「えっ、あ、いや、どういたしまして!」 那月がにこりと微笑みながらさらりと吐いた嘘に、音也は素っ頓狂な声を上げたが、莉子が嬉しそうに礼を述べた瞬間、あわあわと慌てながらも頬を赤らめた。 そんな音也の初々しい反応に、那月と真斗は温かい目を向けて笑みを浮かべ、友千香は楽しそうにニヤニヤと口元を緩ませた。またしても春歌は、そして今来た莉子は、彼らの状況を理解出来ずに頭上にはてなマークを浮かべる。 「あ、星野。これ、飲み物」 「ありがとう。あ、隣いい?」 「う、うん!」 飲み物を受け取りながら音也の隣に腰を下ろすと、音也は先程よりも緊張したように身体を強ばらせた。 それもそのはず、音也は彼女を意識してからこんなにも近い距離で肩を並べた事が無かったのだ。 音也と莉子の間にはいつも何かしらの距離が存在した。机と机の距離であったり、少し離れて座る椅子の距離であったり、間に挟んだ譜面立てであったり。 それは音也が無意識ではあるが、故意にやっていたものであった。彼女と近すぎるとドキドキという心臓の音で壊れてしまいそうだから、思わず触れてみたくなってしまうから、離したくなくなってしまうから。そして何より、拒まれるのが怖いから。だから音也は彼女と故意に距離を置いていた。 しかし、今は莉子の方から自分に寄り添ってくれる。那月が用意した6人で座るには少し狭いビニールシートのおかげで、音也の肩と莉子の肩は時々触れ合ってしまうほどに近い。 意識すると、あまりの緊張と熱さでまた走り去ってしまいそうになる距離に、音也は一瞬、頭がクラクラとした気がした。 「あ、そういえば用事って何だったんですか?」 「ん?あぁ、翔くんに用があって…」 莉子が春歌に答えた言葉に、音也は自分の耳を疑った。 (翔?今、翔って…) 音也はついさっきまで熱すぎてクラクラとしていた頭に冷水を掛けられた気分になった。すぅっと熱さは引いていき、代わりにフツフツとした気分の悪いものが心にねっとりと絡みつくのが分かる。 「…星野、翔と仲いいの?」 「え?と、特別仲良いって訳じゃないけど…」 莉子は音也から目を逸らし、僅かに頬を赤らめる。 その瞬間、彼は自分の心に入り込んだどろりとした醜い感情の正体を知ってしまった。 音也は、その感情の矛先を向けてしまった大切な友人に対する罪悪感に、慌ててその感情を脳内からかき消すよにふるふると頭を横に振った。彼は、こんな感情を捨ててしまいたかった。いや、出来るならこんな感情を知りたくなかったのだ。 (どうしよう、俺、) 音也は唇を噛み締めて、誰にも気付かれないようにきつく拳を握り締めた。 時には醜い感情とも闘います (お願いだから早く消えてよ、)12/07/06 |