一歩を踏む出すということは別に怖いことではなかった。
しかし、一歩を踏む出すことによって、今まで築いた関係が崩れてしまうということはとても怖いことだった。



たとえばキスをして恋をして 06



「ない…」

顔面蒼白はこのようなことをいうのだろう。精神的な同様や困惑などによって顔が真っ青になること、まさに、今の私の顔はその言葉がぴったりな程に真っ青であった。
あわあわと慌てるような焦りはなかった。寧ろ、今は何も考えられず思考回路がショートしてしまうような感覚だ。人間、焦りという状態も極限を越えると、慌てるよりも妙に落ち着いてしまうものなのかもしれない。

「本当にないの?全部探した?」
「うん、ない」
「どこかに落としたんでしょうか…」
「多分、そうだと思う」
「もー、あんたって子は…ちょっとは慌てなさいよ」

真っ青な顔をしながらも慌てる様子のない私にトモちゃんが盛大に溜息を吐いて、額を掌で押さえ込んだ。ハルちゃんは私の代わりとでもいわんばかりにあわあわと慌て、周りをキョロキョロと見回す。しかし、綺麗に磨かれた食堂の床には、塵1つ落ちてはいなかった。
私が落としたものは学内で使うカードであった。この学園内では直接的な金銭を使わない。代わりにその1枚のカードで学内で購入する物の全ての支払いをするというシステムを用いていた。
いつもパスケースに入れて鞄やポケットの中に入れているのだが、それがどこを探しても見当たらない。それに気が付いたのがついさっきの出来事だ。最後にそれを使ったのは先週の金曜日なので、それ以来使っていないはずなのだが、どうしてもパスケースは見つからなかった。

「金曜以来使ってないんなら学園内にあるはずだね」
「そうだよね……あ、」
「どうしたの?」

パスケースの中に入っていたのはその学生証と電子マネーであった。そして、私は昨日、その電子マネーを使用したのだ、電車に乗るということで。
しかし、昨日早乙女学園の最寄り駅へ降りた時にはその電子マネーで精算をしたのだから、確かに自分の手元になったはずである。だとしたら、無くしたのは昨日の帰り道か、この学園内ということになる。もしも、学園外で落としていたとするなら、探す範囲が広がってしまうので少々厄介であった。

「あー…もしかしたら学園の外かも…」
「何処か出掛けたんですか?」
「ん、ちょっと買い物に。でも帰りはそれで電車に乗ってきたから落としたとしたらあんまり遠くじゃないと思うんだよね」

私の淡々とした口調に再びトモちゃんが溜息を吐いた。しかし、今度は呆れた表情ではなく、心配した表情であった。

「莉子、分かってるとは思うけど、うちの学校で食事したり買い物したりするのってカードで払うんだからね?」
「うん?」
「あのね、あんた今カード持ってないってことはこれから何も食べられないし何も買えないってことだよ?」
「……、あああー!そうだ!ヤバい!」
「…焦るの遅いっつーの。まぁ、見付かるまでは、」

トモちゃんに叩きつけられた事実は私には衝撃的なものであった。
カードを無くしたのなら授業が終わったら数日掛けてでもゆっくり探そうと思っていた。しかし、その間何も食事が出来ないなどということは起こってはいけない出来事であったし、何より耐えられない事であった。

「ちょっと探してくる!!」

そう言って食堂を駆け出した私の耳に、トモちゃんが続けて言った「見付かるまではあたしが支払っておいてあげるよ」などという優しい言葉は当たり前だが、全く入らなかった。
私のいなくなった食堂には、頭を抱えたトモちゃんの更に大きい溜息と、ハルちゃんの心配そうな声だけが残されていた。



昼休みの間に学園の外へ出ても短時間しか探せないことを考えて、まずは食堂まで来た道を歩いて探すことにした。
名前の入ったピンクのカードであるから、落ちていたらすぐに見つかると思う。そう考え食堂へ行くまでに通った中庭をぐるりと囲むように造られた回廊を下を向いて歩いた。が、食堂と同じくそこには何も落ちていなかった。

「うーん…あとは教室、あ、実習室かなぁ…」

午前中にやった授業を思い出しながら、回廊を歩く。ここに無ければ午前に行なった授業の教室か、そこまでの廊下、またはトイレなどを探すしかない。それでも無いのなら放課後学園の外を探してみるつもりだ。
ついていない。そんな言葉が脳内に浮かび上がり、小さく溜息を吐いた。しかも、その責任は自分のうっかりという最悪の状況であるのだから、責める相手はただ1人しかいないだろう。
しかし、自分自身を責めている場合ではない。カードを見付けないと、暫く何も食べれない、買えないという状況に陥ってしまう。そんな事は絶対に避けなければならなかった。
「よしっ」と気合を入れ直すと再び回廊を歩き出した。次の捜索場所は階段と実習室だ。

「あっ!ねぇ、ちょっと待って!」

そんな私の腕を、後ろから誰かの手が捕まえた。
その音は聞き覚えのある音だ。そう、少しだけ鼻に掛かった高めの弾んだ明るい声、もしかしなくても、この声は、そしてこの人は。

「あ…!」
「やっぱり!君昨日の子だよね?同じ学校だったんだ、びっくりしちゃったよ」

そう目の前に立っていたのは昨日私を助けてくれた正義のヒーロー、もとい、赤い髪が印象的な正義感の強そうな男の子であった。
男の子はどこか嬉しそうにニカッと白い歯を見せた。笑顔が似合う、眩しい太陽のような子であった。まさか、同じ学園の生徒だったとは、

「あ、昨日はありがとうございました。その…いきなり帰ってしまってすみません…」
「本当だよ、いきなり走ってっちゃったからびっくりしたんだから」
「す、すみません」
「まぁ、いいんだけどね。でも同じ学校だったら尚更寮まで送ってあげればよかったね。大丈夫だった?」
「あ、全然大丈夫です。心配をおかけしてしまってすみません」
「そっか、大丈夫ならよかった」

男の子は再びニカッと笑顔を見せた。屈託のないその笑顔はすごく輝いていて、こんなに笑顔が眩しいと思う人間を、私は初めて見た。そんな気がした。
男の子は私の顔を首を傾げながら覗き込んで「そういえば、」と言葉を続ける。その仕草に昨日の彼をそのまま重ねることが出来た。彼はきっと、きちんと人の顔を見て、目を見て、会話をしたい人なのだろう。そん所からも彼の良い人柄を窺うことが出来る。

「どうしたの?何か探し物?」
「あ、はい。実は―」
「やぁ、レディ。また会ったね」

彼の質問への返答はもう1人の男の人の艶やかで色気のある声にかき消されてしまった。その声のする方へ、男の子と一緒に振り向く。視線の先には片手をポケットに入れ、もう片方の手を上げながらも背筋をピンと伸ばしたモデルのような歩き方で近付いてくる男の人がいた。明るい褐色の長髪で、髪の毛とは対照的なブルーの瞳が輝くギリシャ神話に出てきそうな顔の整った人、その人は歩き方や立ち振る舞いだけでなくスマートな体型までもモデルのような人であった。
そして、その人を見て、脳内にフラッシュバックする光景。そう、彼は昨夜、駅前の通りでぶつかってしまった男の人であった。

「き、昨日はすみません!」
「気にしないで?ところで、レディの探し物はこれかな?」

ぶつかってしまったのにも関わらず丁寧に謝らなかった事を思い出し、慌てて頭を下げた。しかし、彼は到底気にしていない様子で、ポケットの中から人差し指と中指で挟むようにしてピンクのパスケースを取り出した。
ピンク色を基調とした柄物のパスケースは、紛れもなく自分の物であった。もしかしなくても、昨夜、彼とぶつかってしまった時に手元から落ちてしまったのかもしれない。いや、そうでも無ければ彼が自分のパスケースを持っていないだろう。

「あ…!ありがとうございます!」

男の人に再び深々と頭を下げた。
これで自分の食事と買い物の安否が確保されたのだ、本当に感謝の気持ちでいっぱいであった。
男の人は私の前にスッとパスケースを差し出す。そして、顔を上げた私にウインクを飛ばしながらニコッと微笑んだ。その笑みもまた艶やかで、そんな彼に異様なまでの羞恥心が沸き上がり、私の顔にはみるみるうちに熱が溜まっていくのだった。

「オレは神宮寺レン、よろしくね、莉子ちゃん」




なまえをよんでよ
(さぁ、今こそ踏み出せ)
(かけがえのない第一歩)





「莉子ちゃんって言うんだ!」

そして私の隣から聞こえてくるもう一つの声。
その声の方を見上げれば再び私の顔を覗き込んでニコリと笑う男の子の姿があった。

「俺は一十木音也!よろしくね!」

私の人生は、この学園で本当に大きく変わろうとしていた。


12/04/25





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