弱音を吐くのが怖かった。
弱音を吐いて、弱い人間だと見捨てられるのも、面倒な子と思われるのも、怖かった。
だから口から出る言葉はいつも偽りの言葉でしかなかった。しかし、そんな偽りの言葉はいつしか相手を騙すだけでなく、自分自身さえも上手く騙してしまっていた。

「私は大丈夫」

その言葉は、私を騙す、魔法の言葉。



たとえばキスをして恋をして 05



新しい学生生活が始まって初めての休日は清々しいまでにいい天気であった。
今月末にあるレコーディングテストのことなど、不安は相変わらずあるが、部屋に引きこもっていても何も始まらない。折角のいい天気であるので、気晴らしがてら近くのショッピングセンターまで買い物に出掛けることにした。
早乙女学園から数駅先にあるショッピングセンターはなかなかに大きく、そこだけで日用品は勿論、お洒落な洋服や雑貨までも揃ってしまうようなところだった。
春らしい柔らかく淡い色の洋服がショーウィンドウに立ち並ぶ。ショッピングセンター内は、どことなく春に咲く花の匂いを漂わせている気がした。
自然と浮かれ立つ心を抑えながら、私は色鮮やかな店内へと足を運んだ。




「よかった、いいのがあって」

色々な店を周って漸く買い物を済ませ、数個の紙袋を持ちながら歩く帰り道は、行く時よりも荷物が多く重いというにも関わらず、足取りはとても軽やかであった。
新作の可愛らしいワンピース、春を装わせる素敵なブラウス、淡く優しい色のスカート、そして音符の柄が入った小さめのお皿。

「クップル喜んでくれるかなぁ…」

音符の柄が入った白を基調とした小さめのお皿はクップルの為に購入したものであった。
彼はハルちゃんと仲がよく、一緒に遊んでいる所を頻繁に見かけるけれど、夜は必ずといっていいほど私の部屋に遊びにきてくれた。部屋で1人で食事をすることが多い私を気遣ってくれているのだろうか、というような考えが頭を巡るが、猫の習性からして食べ物を与えてくれるから遊びにくるのだろう。しかし、それでも私は嬉しかったし、クップルと共に食べる食事はとても楽しかった。
だから、いつも食事を共にしてくれるお礼に、と思い彼専用のお皿を買ってきたのだ。今夜食事をする時、クップルはこのお更に気が付いてくれるだろうか。

『3番線、電車が参ります。ご注意下さい』

ホームに乗車案内のアナウンスが響き渡る。
ゆっくりとしたスピードでホームに入ってきた冷たい電車が巻き起こした生温い風が、頬を掠め、髪の毛を揺らした。



ショッピングセンターでゆっくりしてしまった為に、時刻は既に夕方を指していた。夕日を待つ空はグラデーションを掛けたかのように徐々に色を褐色に染めていく。そんな時間帯の電車は、自分と同じように出掛けた人が多いのか、沢山の人で溢れていた。
そんな電車内はとても狭かった。何とかドア付近の手すりに掴まれるようなスペースを見付けてそこに入り込んだが、密度の高い車内、ぎゅうぎゅうと後ろから押され、半ば潰されるようにドアのほうへ追いやられる。どうやらここのスペースを選んだのは失敗であったらしい。

(うぅ…潰される…)

ドア付近はより一層人の密度が高かった。
人間というものはどうして電車はバスの乗り物に乗ると、ドア付近に固まってしまうのだろうか。奥まで行けば広いスペースはあるというにも関わらず、直ぐに降りるからという理由でドア付近から先へ進もうとはしない。その距離はたった1、2メートルだというのに、頑なに動こうとしないのは、単に面倒だからなのであろうか。いや、もしかしたら人間の本能的なものなのかもしれない。
そのような事を考えている自分もまた、ドア付近に固まる人間の1人に過ぎなかった。無意識のこの行為が、人間の本能だとするならば、人間は知らず知らずのうちに隅という空間を好いてしまっているか、もしくは何かあってもすぐに逃げられるよう自己の安全を守っているのだろう。私がそうであるように、きっと、無意識に。
ガタンッと電車が大きく揺れた。それに伴い乗客も足元をふらつかせる。キャハハッと車内から女の子たちの笑い声が聞こえた。

(作曲、しなきゃ…)

手すりを捕まる指先を見つめながら脳内に浮かんだ言葉はやはり作曲のことであった。
自分に作曲が出来るのだろうか。
今までも作曲とまではいかないが、自分で好き勝手に曲を奏でることはあった。しかし、それはあくまで自分の感性のままにめちゃくちゃに鍵盤を鳴らしているに過ぎなく、それを改めて譜面に起こしたり、誰かの為に1つの曲を作るということは勿論やったことがなかった。所謂未知の世界である。
それに、そろそろパートナーを決めなくてはいけない。けれど、友達はもう既にパートナーが決まっている子か同じ作曲家コースの子ばかりで、自分とペアを組める子はいなかった。それでも時間は待つことを知らず、刻々と過ぎていく。残された時間はほとんど無かった。
再びガタンッと車内が大きく揺れる。後ろから、もの凄い勢いで人がよろけて自分の身体を押した、その時であった。

「っ!?」

突然、下半身を撫でる不快な感覚を味わい、背中にぞくりという嫌な悪寒が走った。
その不快感を作る原因となっている手は臀部をゆっくり撫でる。足に鞄が当たっているので、さり気無く鞄を持った手で行なっている行為だという事、そしてそれが俗に言う痴漢という行為であるということに気が付くのに、少し時間が掛かった。
押し当てられた手の甲は臀部にぴったりとくっつき、指先は器用にすりすりと臀部の形に沿って撫で回す。そして、暫くその行為は続き、次第に指は臀部から太腿のほうへと降下しどんどんと事態を悪化させていった。
とても気持ちが悪かった。しかし、声を出すことは出来なかった。全身は酷い恐怖心に囚われ、1ミリ足りとも動かすことが出来ない。少しだけ開くことが出来た唇も、恐怖にぷるぷると小刻みに震えるだけで、声を出すことなど到底出来なかった。よく、痴漢をされた女の子はなかなか助けを求められないということを聞いたことがある。その気持ちが今、とてもよく分かった。
早乙女学園の最寄り駅まであと1駅。どうしようもなく気持ち悪いし怖いけれど、我慢することしかない。声を出して、人に迷惑をかけたり、変な目で見られるよりは、ずっとマシだ。
そう覚悟を決め、堪えるようにぎゅっと目を瞑った瞬間だった。

「おっさん!やめろよ!嫌がってるだろ!」

私の耳に入ってきた音は、少し高めの男の子の声であった。
ぴたりと止まる気持ちの悪かった手、ざわざわと騒めく車内。恐る恐る後ろを振り返ると、鞄を持った中年男性の腕を掴んで険しい顔をしている男の子が立っていた。
燃えるように赤い髪が印象的な正義感の強そうな男の子であった。眉間に皺を寄せながら眉を吊り上げ、中年の男性を睨んでいる。そんな姿が、正義のヒーローのように私の目には映っていた。

「なっ…何を言っているんだ…言い掛かりはやめてくれ」
「今この子の身体触ってただろ!俺見てたんだから!」
「ふんっ、ヒーロー気取りか?でもそれは君の見間違いだ。そうだろ?お嬢ちゃん」

いきなり中年男性に話を振られ、私の心臓は大きくビクリと跳ねた。
未だ恐怖感が抜けず、上手く声が出せない。漸く開いた口から出たのは、変に上ずった「あ、その、」といった小さな声で、自分でもはっきりと言えない自分が情けなくなった。その上車内はより一層騒めくものだから、どんどんと焦燥感は湧き、それに伴い声に出すのが怖くなる。意気地のない自分が悔しくて、俯きながらぐっと震える拳を握った。

「ほら、見間違いだろう」

何も言えない私の頭上から振ってきた言葉はあまりにも冷たく、残酷なものであった。
その一言で、立場は逆転する。私を助けてくれた男の子はを正義のヒーローから、悪へと直ぐに逆転し、中年男性は被害者に転向した。
更に車内は騒めく。ざわざわとした雑音が、耳にこびり付いた。

『ご乗車ありがとうございます。まもなく、』

次の駅を知らせる車内アナウンスが流れた。次は早乙女学園の最寄り駅だ。
痴漢容疑を叩きつけられた中年男性もきっと、一旦この駅で逃げるように降りるだろう。そして、私を助けてくれた彼は、きっと、
先程よりもぐっと拳に力を入れながら、ゆっくりと顔を上げる。目が合った彼は、少し悲しそうな表情をして、でも小さく微笑んでくれた。

「…あの!私っ――」




「よく頑張ったね、偉い偉い」

そう言って彼は私の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
あの後、大きな声で彼の潔白と中年男性のした行為を唱えた私は、犯人である中年男性、そして彼と共に電車から降り、駅員に案内されるがまま事務室のようなところに連れていかれた。そこで事の経緯などを詳しく話すと、中年男性は駆けつけた警官に連れられて部屋を後にした。私を助けてくれた男の子は警察や駅員に大変感謝され、私は多いに心配されてしまった。
しかし、その言葉に返す言葉はいつも通りのありふれた返事であった。ずっと同じ言葉を繰り返す。
そして、そんな私を見て、彼は事務室を出た後、心配そうに眉を下げながら顔を覗き込んできた。

「本当に大丈夫?まだ怖かったりする?」
「大丈夫です、気にしていませんので」
「でも…、あ、送って行こうか?」
「えっ?い、いえ!本当に大丈夫ですので!」

そう言っても彼は尚も「でも、」と言葉を続ける。
時刻は夕方という時間帯を当に過ぎていて、辺りは暗くなっていた。そんな時間まで無関係の彼を巻き込んでしまったことに盛大な罪悪感が沸き上がる。それだけでも申し訳ないというのに、全く関係のない駅で降ろして送ってもらうなんて以ての外の考えであった。

「もう大丈夫です!今日は本当にありがとうございました!」

これ以上見ず知らずの相手に迷惑をかける訳にはいかない。私は90度よりも深々と頭を下げてその場を駆け出した。

「えっ、あっ、ちょっと!」

遠くで彼の声がした。
それでも私の足は止まることなく、一気に改札を通り、駅の外へと走り抜けた。
もしかしなくても、私はとても非常識極まりないことをしてしまったのかもしれない。しかし、頭をフル回転させて纏まった思考は、これ以上彼に時間を取らせないという答え一択であった。
数時間しか共にしなかったが、それだけでも分かる、彼はとても正義感の強い男だ。そんな彼は、どう断っても最後まで送り届けると言い続けるだろう、そう思ったのだ。

(ごめんなさい…!ありがとう!)

混み合う駅前の通りを人混みを避けながら懸命に足を動かした。立ち止まる人や通行人とすれすれの至近距離ですれ違い、時には驚きの声を上げられる。しかし、足は止まらなかった。
そうして彼から逃げ出すことに必死だった私は気が付かなかった。駅前通りの人混みから少し離れたところにいる人という障害物に。それは私を避ける訳でもなく、そして私もそれを避け切れずに、肩と肩がトンッとぶつかった。

「…おっと、」
「す、すみません!」

再び深々と、でも先ほどより急ぎ足で焦りながら頭を下げて謝り、私は再び前に走り出した。
もう走る必要なんてないのは分かっていた。それでも、私の足はまるで止まることを知らないとでも言うように走り続ける。少し高いブーツのヒールがアスファルトに叩き付けられる音が街路樹の立ち並ぶ真っ直ぐな道路に響き渡る。
早乙女学園は、もう目の前であった。



嗚呼。残り香にすら、眩暈
(えぇっ!どうして逃げるの?)
(どうして逃げるんだい?子羊ちゃん)
(2人とも、ごめんなさい!)





息を切らしながら全力疾走する私と、未だぽかんとした表情でホームに立ったままの男の子、そして、少し呆れたように笑う男の人が、同時に呟いた言葉は、きっと誰にも届かないだろう。


12/04/22





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