幼い頃から「ピアノを弾くのが上手だね」と言われるととても嬉しかった。それが両親から言われた言葉なら、数倍も数百倍も嬉しかった。笑顔を浮かべて「莉子のピアノだいすきだよ」と言いながら頭を撫でられれば涙が出るほど嬉しかった。 しかし、正直、ピアノを弾く事は、嫌いだった。 たとえばキスをして恋をして 04 (ハルちゃんいるかな…) Aクラスは隣の教室であるのに、この広い早乙女学園の中では隣であって隣でないような錯覚さえ起こすほどに遠かった。 長い廊下を歩き、Aクラスの茶色のドアからこっそりと顔を覗かせて中を確認した。しかし、お目当ての人物は教室内に見当たらなかった。 (ハルちゃんならあの資料持ってると思ったんだけどなぁ…) 小さく肩を落として溜息を吐いた。しかし、彼女がいないのでは仕方がない。彼女とは今夜一緒に食事をする予定があるのでその時に聞いてみよう。 そう思って踵を返そうとした瞬間、教室内から鮮やかなピアノの音色が聞こえてきた。 優しく、でも強弱のしっかりついたとても上手いピアノ演奏。決して教室内の雰囲気を壊すような事のない、寧ろ雰囲気を引き立たせるような心地のいいBGMみたいな音楽だった。 その音色に誘われるように音の鳴る方へ視線を向けると、大きく開かれたグランドピアノの蓋の間から、音を奏でている本人の姿が見える。 奏でる音に良く似合った優しい雰囲気の男の人であった。綺麗な絹のように繊細な青い髪、透けるような白い肌、髪の毛と同じ色の優しい瞳。どこか気品の感じる凛としたその人の姿は、私が今まで生きてきた中で見たこともない程に綺麗で美しかった。まるで、絵画の中から出てきたのではないかと言っても過言ではない、そんな印象だ。 しかし、その綺麗な男の人が弾くピアノの音色は何故か私の胸をぎゅっと締め付けた。とても綺麗で、人の心にスッと自然に入り込むような演奏。なのに、私の胸は、感動よりも痛みのほうが多く感じ、胸を少しだけ苦しめた。 「いたいた!莉子ー!次の授業始まっちゃうよー!」 その苦しみから解放してくれたのは、遠くから自分を呼ぶ友人の声であった。 入学式から数日経ち、同じクラスにも沢山友達が出来た。私は学園内に徐々に居場所を見付けることが出来ていた気でいた。しかし、まだ足りない。何かが、足りない。そう思わずにはいられなかった。 それは、パートナーがまだ見付かっていない事の焦りだとか、同室の子がいないという事の寂しさではないということは、自分でもなんとなく分かっていた。 だが、何が足りないのか、一向に分からない。胸をざわざわとさせるこの感覚もまた、何なのか分からないままであった。 「ごめん!今行くー!」 Aクラスから離れ、駆け出しても尚、綺麗な彼の綺麗なピアノの音色が耳から離れることはなかった。 「それって多分まさやんじゃない?」 オムライスを口に運びながら私の右手に座るトモちゃんがさらりと何喰わぬ顔で言った。私の左手に座っているハルちゃんも、オムライスを運ぶスプーンを一旦お皿の上に置き、「あっ、そうかも」なんて言ってパンッと軽く掌を合わせた。 「まさやん?」 「聖川真斗。あの聖川財閥の御曹司よ」 形の整った唇を閉じもぐもぐと口を動かしながらトモちゃんは話を続けた。喋りながら話すものだから口の端にケチャップが付いてしまったが、それを親指の先で拭い、ペロリと舐める仕草でさえもセクシーに見えてしまうのだから恐ろしい。 彼女はハルちゃんの同室の子であり、同時にハルちゃんと同じAクラスのアイドルコース専攻の女の子だ。ハルちゃんの紹介で仲良くなったのだが、これがまたハルちゃんとは正反対の性格の持ち主であり、とてもサバサバとした所謂頼れる姐御肌というものだから面白い。トモちゃんもハルちゃんと同様、とても付き合いやすい子で、すぐに仲良くなることが出来た。今ではとても仲が良く何でも話せる数少ない友人の1人だ。 そんな2人に夜ご飯を一緒に食べないかと誘われて、彼女たちの部屋へお邪魔しているのだが、これはいい機会だと思い、昼間見た綺麗なピアノ演奏をする彼のことを聞いてみた。 すると、答えは思ったよりも直ぐ返ってきた。トモちゃんがいうに、昼間、美しい音楽を奏でていた彼は聖川真斗という御曹司の嫡男であるらしい。容姿端麗、才色兼備そんな言葉がぴったりな男の人だという。 確かに、目指しているのはアイドルであるというのに、あんなに綺麗なピアノ演奏をするのは、凄い才能の持ち主であるということが分かる。1人で作詞作曲し、歌まで歌ってしまいそうだ。 「何何?莉子、まさやんのこと気になるの?」 「えっ!?ち、ちが…!」 「本当にー?今度Aクラスに来た時まさやんも呼んであげよっか?」 「い、いいって!そんなんじゃないから!」 ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべたトモちゃんが私の顔を覗き込んだ。 確かに、昼間、彼の演奏するピアノを聞いてからずっと彼のことを考えている自分がいた。しかし、それは彼のピアノの演奏のことであり、彼自身のことではなかった。確かに彼はとても綺麗な顔をしていた。しかし、一目惚れという類のものをしない自分からすれば、中身も知らない、況してや名前も知らない彼に恋をするというなどは有り得ないことであった。彼の内面を知れば、その可能性もあるのかもしれないけれど。 尚も私をからかうことに夢中なトモちゃんの口車から逃れる為に、早急に話題を変えなければいけない。そんな私の目に飛び込んで来たのは、ハルちゃんの背後に見える1枚のポスターであった。 「ハルちゃん、あれって…」 「あ、HAYATO様です。私HAYATO様の歌が大好きで!」 そのポスターに話を振った途端、ハルちゃんの大きな目が今までにないくらいキラキラと輝いた。 HAYATOとは、新人にも関わらず毎朝早朝に“おはやっほーニュース”というレギュラー番組のMCを務める期待のアイドルである。聞いた時は彼女のイメージとは違うため、少しギャップを感じてしまったが、ハルちゃんが熱心にHAYATOの魅力を語っているのを聞くうちにその違和感はすんなりと消え去っていた。 HAYATOの話をするハルちゃんはとても楽しそうで、眩しいくらいに輝いていた。 信じられる夢があり、確実な目標を持つ彼女は、必ずいい結果を残す。そう思わずにはいられない。 そして、そんな彼女を純粋に羨むような目で見つめている自分が、いた。 夕日が差し込むレッスン室の空間が好きだった。 オレンジの光が室内を照らし出し、伸びたグランドピアノの黒い影が、自分を半分照らし半分影にする夕日が、どこか哀愁を感じさせるようなところがとても好きだった。 自分が奏でるピアノの音が少し悲しく聞こえるのも、鍵盤に触れる指先が少し冷たいのもこの哀愁に呑まれているからであり、胸が焦がれるように切ないのもまた、哀愁という一瞬の雰囲気に呑まれているからだ。 ピアノが音を鳴らす。冷たい指先は次々とモノクロの鍵盤を静かに押し、シルバーの弦が僅かに震えた。 今弾いている名前もない曲が、悲しい曲に聞こえてしまうのもきっと、この哀愁という見えない一時の情緒に操られているからだろう。 小さく、誰にも聞こえないような溜息を吐いた。誰にも聞こえないように、と言っても、このレッスン室には自分以外誰もいないのだが。 しかし、そう思っていた矢先、背後からガタリッと物音がした。驚き、肩を揺らすと同時に後ろを振り向くと、そこには、先日見かけた彼がいた。 「…すまない、ピアノの音が素晴らしかったのでつい、」 聖川さんは整った顔を申し訳なさそうに僅かに歪ませた。 「あ、いえ、」 慌てて返答しようとも、私の口から出た言葉はなんとも歯切れの悪い中途半端なものだった。 彼と話すことが決して嫌な訳ではなかった。寧ろ、あんな綺麗な音色を奏でる彼と話せたことは、同じピアニストとしてとても嬉しかった。 しかし、突然現れた彼に、心の準備も出来ていない私の胸の中は、この前感じた理由も分からない痛みを再び感じてしまうのではないかと怯えていた。 暫しの沈黙がレッスン室を包む。そんな少し気まずい雰囲気を取り払ってくれたのは彼であった。 「……その…名は」 「え?」 「…俺は聖川真斗だ」 「…あ、私は星野莉子です」 「…星野、」 聖川さんは私の名前を聞くと、繰り返すように私の名前を口にした。 そして、真っ直ぐに私を見つめ直すと、薄い唇をゆっくりと開いた。たったそれだけの動作にも関わらず、時間の流れがとてもゆっくりに感じたのは、彼の美しく濁りの全くない純粋な瞳に吸い込まれたからであろうか。 聖川さんの綺麗な瞳は、何もかも見透かしているようで、一瞬だけ、息が詰まった。 「星野、俺と共にピアノを弾いてくれないか」 てのひらで紡いだ歌 (2人で奏でたメロディーは)(視界が揺らぐ程に温かかった) 1つのグランドピアノに2人分の手が添えられ、軽快に鍵盤の上を躍るように動く。 聖川さんと一緒に弾いた曲は、先程まで私が弾いていた曲と同じであるというのに、彼が加わることで全く別の印象を与えてくれた。 伴奏に重なるもう1つの伴奏。それは、即興であるというにも関わらず、先日聞いた彼のピアノの演奏と同じように、決して主旋律を邪魔しない、しかし、きちんと自分の音も消えないよう自分自身の色を出しながら、メロディーを際立たせ引き立てるように鳴らされた完璧すぎるものであった。 「…なんか、温かい…」 弾き終えた後に無意識に漏れてしまった本心。 聖川さんはふっと頬を綻ばせながら「たまにはこういうのもいいだろう?」と言って優しい笑みを浮かべた。 12/04/17 |