息が苦しくなるくらいきつく抱き締められた私の頬に降ってくるのは冷たい冷たい雨であった。
降り注ぐ雨は私の丸くカーブを描いた頬を伝い、やがて唇にたどり着いた。思わず舐めた唇は、少ししょっぱかった。



たとえばキスをして恋をして 02



国内でも有名且つ数少ない芸能専門学校である早乙女学園はパンフレットで見るよりも豪華で、そして広大な敷地を所持していた。
高くそびえ立つ音符を象った鉄格子の正門、緑が豊かな広すぎる庭、外国の建物のような造りをした校舎、そして、外国の、というよりどこかの神話や童話に出てきてもおかしくないであろう外観の寮。
校舎や寮の中も、ここが学校であるということを思わず忘れてしまうくらい立派な設備が揃っている他、有名劇場と何ら変わらぬ講堂や、現アイドルなどの収録にも使うと言う程音響のいいレコーディング室までもあった。
私が今まで見てきた世界とは正反対の世界。それが早乙女学園であった。



「…ひ、広すぎる…」

漸く終わった自室の整理。元々それ程多くはなかった荷物は、広大な敷地に聳え立つ寮の、これもまた広すぎる部屋にこじんまりと収まった。
ベッドに腰を下ろせば、目の前に見える白い壁。私と同室の予定だった女の子はどうやら似たり寄ったりな趣味をしていたらしい。入学前に聞かれた寮の部屋の希望を提出しての相部屋だったにも関わらず、ドアを堺に区切られているはずの室内は、白い壁のおかげか、それとも茶色をベースとした家具のおかげか、どう見ても一つの部屋にしか見えなかった。そんな同室予定であった顔も知らない彼女は、家庭の事情で入学式を目前に入学を取りやめてしまったらしい。
2人で使うにも広すぎるであろう室内は、1人には尚更広すぎた。
相部屋の彼女と共に囲もうと思っていたテーブル。自分が座るであろう席の目の前の椅子には、誰も座らない。今私が座っているベッドと対になるように設置された空のベットも、誰も横にならない。いってきますと言っても、ただいまと言っても、誰も返事を返してくれない。
今までの生活を考えれば、そんなことは慣れた日常に過ぎなかった。しかし、ここに大きな希望と少しの期待を抱いてきた私は、そのことが異常に寂しく感じてしまった。

(また、一人、)

私が夢に見た、帰る場所は、ここにもなかった。



――莉子、
――莉子、

誰かが私を呼んでいる。穏やかで少し低い優しい声。誰の声であろうか。多分、初めて聞く声音。
そして、その声の持ち主の手が、私の頬をそっと包み込む様に撫でた。

「くしゅんっ!」

身体が芯まで冷える感覚にぶるりと震えると共に嚔が出た。ゆっくりと重たい瞼を持ち上げれば目の前いっぱいに映ったのは、黒い毛並みをした猫であった。

「…ね、猫…?」

突然の出来事に驚いて身体を起こせば、黒い猫はにゃーと鳴きながら、艷やかな毛を身に纏った身体を擦り寄らせた。ふと、髪を揺らす弱い風に気付いて反射的に窓に目を向ければ、自室の窓が全開である事に気付く。どうやら昨夜は窓を締め忘れて寝てしまったらしい。春だとはいえ、4月早朝の風はまだ冷たかった。
開いていた窓からきっとこの猫は入ってきたのだろう。すりすりと身体を擦り寄せてくる猫はまるで、冷えてしまった私の身体を温めてくれているようで、なんだか心が一気に温かくなった。

「迷い猫かな…。そうだ、ミルク飲む?」

猫と会話など出来ると思ってはいないが、なんとなく話し掛けてみると、思いの外元気に、にゃん!と鳴いた。
まさか、猫が自分の言葉を理解しているのか、などという考えが一瞬頭を過ぎったが、あまり深く考えない事にした。それでも、無意識に綻ぶ口元は正直で、如何に私がこの部屋で会話という言葉遊びをしたかったのかということが嫌でも分かってしまう。それが、たとえ猫でも、今の私には十分すぎるものだった。
あえてテーブルの反対側に置いたミルク。それを目当てに器用にテーブルの上に登った黒猫。そして、反対側の椅子に座る私。
今朝の朝食はとても美味しく、楽しくいただけそうだ。



この世は不思議と偶然に隠れた必然に満ちている
(この不思議な出来事が)
(これから訪れる運命の始まり)





窓を少し開けたままいってきますと言って部屋を出れば、室内から聞こえる優しい鳴き声。
それに気を良くした私は軽い足取りで寮から少し離れた校舎へ向かって歩いていった。空を仰げば、今日の天気も雲はあるけれど、素晴らしい程の青空が広がっていた。云わば授業開始日には持って来い、といった日であろうか。
1人だと思っていた部屋に訪れた来客者、澄んだ青空、弾む心。根拠は何もないが、私は確信していた。きっとこれから、素敵な出来事が沢山起きるであろう、と。素敵な偶然が重なり合い、素敵な運命へと導いてくれるだろう、と。

ドンッ!

「わっ!」
「!」

そして、運命は、私の反対側から歩いてきた。


12/02/21





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